ひとは相手のどこに好意をもつのか
自己肯定ってやつだ。
けれど、それは開き直りというやつでもある。
反省がない、自分をかんがみない、疑問を持たない、客観的になれない、我儘な、自己中心的な、成長のない*だ。
世の中はそんな*を
イヤな*と呼ぶ。(中略)
ありのままの自分というのは、本当は、ありのままで努力している自分、のことを指しているに違いない。
恋するチカラ(唯川恵 2004)収録
*は今カメラ持ちたくないみたいなの。死にかけたんだからムリない…よねふうん。なんか意外だな。もっとタフな精神のやつかと思ってた。
(第16話)
市民も放り出せないーー でしょ ? たぶんそれ、まちがってないんじゃない ?そ……か
(第19話)
なんで*さんがその言葉を言ってくれるの? がんばれって、あたしの背中を押してくれるの?おれの好きな君は、たぶんそうするはずだから
(第20話)
文庫版3巻より
アイについて
河合隼雄氏の平成おとぎ話
よりいくつか
夢などめったにかなうことはないという現実認識をもった上で、かなう夢」のあることを教えてくれた先生に有り難うといえるのである。
先進国にはヒューマン・ビーイングはいない。いるのは、ヒューマン・ドューイングだけであると言うと、案の定、わっと笑いが起こった。(略)
何をするべきかと考えたり、私が何をしてあげるかというのではなく、私がただそこにいる、ということが非常に大切になってくるのだ。
(略)
これは実に難しい。何もせずに居ると、人間の心というものは、どこかよそに行ってしまう。そうならずに全身全霊をあげてそこにいる、というためには修練が必要である。
そんな面倒なことをしなくても、最初から自分の個性を生かして努力すればいい、と思うかもしれないが、人間の個性などというものが、そんなに簡単に見つかるはずもない。誰か自分のほかに「生きた見本」を見せられて、あれだ、と思って努力し、苦労してこそ自分の個性が見えてくる。
(略)
不幸にも幼少期にそのような体験をしていない子供は、なかなかそれが難しい。
思い切って身をまかせる経験をもっていないと、いざというときに不安が先立ってしまう。あるいは、まったく途方もない存在でないと身をまかせられなくなるので、(略)このような同一視がどれほど危険であるかは、オウム真理教事件を見てもわかるであろう。
そのことが一番端的にわかったのは、フィッシャー・ディスカウが、このように歌うのだと生徒に歌ってみせ、生徒がそれを聴いて歌いはじめるとすぐに「まねをしないで」と言ったときであった。
(略)
先生は言うなれば、シューベルトのたましいを自分はこう感じとっているのだと伝え、それを受けとめることが生徒にとって大切なのであって、先生の行為を真似してもはじまらないのだ。
劉さんは陳さんを紹介するときに、「諍」という字は、日本人は「論爭」などを連想するかもしれないが、これはそのような意味ではなく、お互いにまったく自由に腹を割って話し合うということなのですよ、と言われる。そして、それに続いて、「中国には、諍友という言葉があるのです」
私が言いたいのは、どちらが正しいとか、どちらがおかしいと言うのではなく、文化には明らかな差があり、その差の存在をしっかりと認識することによって、お互いの誤解を少なくすることができるし、また、他に学ぶことができる、というのである。別に、日本文化が他より優れていると主張する気はない。
複素数などといっても忘れてしまったという人もあろうが、非常に簡単に言うと、普通の実数では量だけしか表せないが、複素数では量のみでなく方向も表せるのである。
蛇足 : この説明で感嘆しないやつは理系じゃない
ところで、対談の達人とも言われる河合隼雄氏が、私は感情とか感覚が未発達なので
と書かれていた文章をみて目を丸くした。この本だと思ったのだが、なんど読み返しても見当たらない。おかげで引用と称した場所が増えてしまった。
ユング心理学のことばで 感情と感覚が未発達
といえば、もちろん 直観と論理には自信をもっている
ということ。なるほど、私が河合氏のことばをちかごろまとめて読んでいるわけだ。封印していた直観を解き放ち、論理との両輪で生きようとしている時期なのだから。
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