2010年10月29日

望外な下駄履き

望外にやぶそば

金曜日。歯医者のあとで食事を予定していたが、血止めのガーゼと麻酔で口を完全に閉じることもできない、水も飲めない。最初に必要な買い物は地元で済んだが、次は秋葉原を予定している。

服装・寝癖などツッコミ処は多いが、こんなときは電車に乗るに限る。帰宅したら、たぶん外に出る気もなくなるしね。

京王線から、笹塚の乗り換えで都営新宿線。小川町から歩くのがもっとも早い。

小川町で下車して秋葉原に向けて歩くと、とくに目指したわけでもないのに神田やぶそばにまっすぐ着いてしまった。江戸三大やぶのひとつ、おそらくもっとも有名な伝統そば店。

九段下・神保町が地元の友人と学生の頃に目指した時には散々迷い、わかりづらい場所の印象があったのだけれどな。何の縁だか、流れだか。出血もとまり、下駄履きのままにふらりと入って奥の席に座る。丸い掻揚げ、ありましたよね。あれと、酒

学生でここに蕎麦を食べに訪れたとき、周りの席に注文されて次々と届くのが美味しそうで頼んだのが最初の そば屋で一杯 だった。料理の正式な名称は 天玉 という。

そして酒について出てくる味噌。これを食べずして、蕎麦屋の酒は… 酒は……。天玉を食べ終わり店の人に訊く。二十年から前、ここで食べたときに出たのは、この 練り味噌 ではなく そば味噌 ではありませんでしたか ?

やはり。この蕎麦味噌が美味しくて私は日本酒と蕎麦が好きになったのであった。むろん練り味噌も美味しい。蕎麦味噌はそのあとあちこちで出すようになり、同じ名前でも店によって違う印象のものが出ることもある、から これは違う という人も出て名前とレシピを変えたのではないかと推測してみる。

昔年に私が食べたものに一番近いのは、いまでは京都の有喜屋 で出すものだろうか。

やぶそば130年の歴史と、その中に私が僅かに知る25年に思いをはせながら。同じく関西で趣味が固着したそば寿司を食し。そば饅頭を買って店を出た。

望外に雀友

三年ぶりに春に会った友人が、よく秋葉原のゲームセンタに遊んでいると聞いていた。せっかくだから近所にいたら幸運とメールを打ってみる。

酔い覚ましのコーヒーを飲んでいると返信。(移動に30分ほどかかる)自宅にいたが、暇だからつきあうよ、と。

春に会ったときも、人生の悩みのはなしがいつしか麻雀の話になり。互いに牌を使い現実生活では打っていないが。彼はネット対局、私は単純な思考ルーチン相手の携帯ゲームで打っていてこんなことがあったという会話。中川は遠ざかっていても実は麻雀が本当に好きだと言われてしまった。

私の買い物に付き合ってもらったあとは、もしも場代の比重が大きすぎない店をみつけることができたら少しだけ、ほんの少しだけ打とうという話に落ち着いてしまう。

考えてみれば、彼はまだ二十代前半。私も雀友と会ったら、飲み会がいつのまにか麻雀に移行し、フリーで打つような日々を二十代のあいだはずっとつづけていたっけ。煙草をもたずに外出し、酒も入れていないだけまだマシといえる。

望外に麻雀

買い物、困窮していたときに友人に借りたパソコンのモニタを返却するため、中古の、それほど解像度のよくないモニタを 3千円ほどで買ったあとで雀荘探し。

秋葉原にはおもしろい、話の種になる、麻雀を楽しむとは言い難い店があると歩きながら語り合い、唯一まっとうな店も、そういったイロモノと同様の 1Game 400 円とわかり新宿に移動。

かろうじて、いわゆる点ゴ、学生レートで標準の、負けても飲み屋よりも安い店で順当な 1Game 四人で 1,500円 の店をみつけて入る。

序盤、やたらについていた。おかげでやっと気づく。私が麻雀を打ちついていると、大きな得点になりそうだと手汗がとまらないのは、こんなにツイている状態で失敗すると、どんな叱責を受けるかわからない というか弱い子供の心のままにいるからだと。

つくづく私は遊びに向いていない性格をしている。

望外に刺身

しばらく牌で語り合い、互いの勝ちを合わせていくばくか足し八吉 なる店にぶらりと入った。

刺身がうまい。北陸の魚に強いようだ。通路との間は暖簾しか仕切っていない二人席を 個室 と称するのはどうかとも思ったが。べつにデートではない。味が良かったので満足。

左上犬歯・歯根骨折

この歯は、四年前に交通事故を起こして歯茎から血が出ていたときに、すでに骨折して死んでいたのだろう。あれ以来ぐらぐらして安定が悪かった。事故で欠落した歯は他にもあり、虫歯で使えない歯はさらに多く。この場所で力を入れものを噛む必要がないから不自由もなかった。きっとそれだけ。そもそも犬歯はものを噛む用途に使わないか。

五月から九月で、虫歯を一通り直した。

九月半ばから左の背中がこわばり、痛く。寝具や日頃の姿勢を疑っていた。

水曜日の夜、歯茎に痛みを感じ、ここから鼻水のようなものが背中に回って無理をしているのかと感じた。子供のころ蓄膿症で苦しんでいたのと似たものだと。

医者が開いている時刻でもないので、蓄膿を排毒する漢方薬を検索し、むかし体質に比較的合っていた中から二軒目の薬局にエキス錠のおいてあった荊芥連翹湯(ケイガイレンギョウトウ) を購入。

木曜一日収まっていたが、金曜。睡眠三時間で痛みがひどく目覚める。

急患として手続きをし、歯医者に行く。歯医者の前の身だしなみの口内清掃、痛みで周りに歯ブラシも当てられなかった。

膿で腫れているのは、「歯根が折れて複雑骨折のようになっていた」と歯科医師に説明された。中で動いて、歯茎を傷つけていたという意味か。

抗生物質と頓服の鎮痛剤の、どちらも強いものを処方される。売薬の漢方剤も、これがなかったら痛みを強く認識できるほど回復しなかっただろうと飲み続けている。


帰宅したら眠ってしまい何もできないだろうと、下駄履き・寝癖のまま必要な買い物に街を歩いた。

追記 ; 11月2日

レントゲンの結果は 粉砕骨折で、かけらの一つが暴れていて歯茎を傷つけていた という。

心当たりの 3,4 年前に、あれからすぐに大事にしていたら、骨折がくっつくように治っていた可能性があったか訊いてみた。だめだって、これだけ酷くばらばらになっていたら。

2010年10月11日

怖れられすぎている「共依存」 , 「依存」

共依存というと、DV (家庭内暴力) などの社会的な生活不適応に結びつけてよく嫌悪される。

また心理学の本にも ( 私が近頃読んでいるのは、相変わらずユング派の人の発言ばかりだが ) (原型を) 他人に投影するのは良くない、自分が飲み込まれるのは怖いこと、という記述が多い。

だが、本当に投影や、投影によって築かれる人間関係て良くないものなのかな、という話。三年前から恐れつづけ、深い人間関係を結ぶことをためらっていたが。ちょっとこの道は違うぞと違和感を覚えはじめた。

アンチとして気にかかったのが八月下旬。ミニブログ、つぶやきのたぐいで検索して、どれほど恐れられているのかをみたとき。今日になってやっと違和感が確かなものになった。たとえば、まったく相手に自分の理想を投影していない人間関係なんかあるの ?


共依存という言葉でよく恐れられるのが、相手のためだけに尽くす像をおしつけられ、そこにしたがうしか自分の生きる道がないと思いつめる関係。DV なんかまさにその代表。保護者の役割を押し付けられる。

だが押し付けるのが 大人の男性、理想の夫像 ならどうか。問題は相手が飲み込まれず、無理なときは無理だとはっきり言えるかどうか、自覚できるかどうか。

理想の会社員、昔の流行り言葉 期待される人間像 を自覚なく押し付けられ、飲み込まれると過労死や家庭不和につながる。だが理想の社会人像を求めない新入社員って、どうよ。

教職なんかどうだ。子供から 理想の大人 、規範をまったく期待されない教師は失格だ。うっかり求められているのが 理想の大人 = 人間・人格 であり、法律の権化無秩序に甘やかす理想の母親 といった神話的な原型ではないと把握し、注意を怠らないことは重要だが。


ローティーンの頃、河合隼雄氏の著作を読んで、物語に出てくるキャラクタを神話的原型に分類することに熱中した。小説そのものが味わえなくなった気がして、半年ほどでとりやめ、封印した。

最近、よくできた物語の中に組み込まれた、キャラクタ間の対話のあるフィクションを読んで神話的な 人の心の中のできごと として物語全体を振り返ることが多くなり、やっと気づいた。

ある部分は他人に投影し、また投影することで他人のなかに自分の中にありながら使うことのなかった資質に気づく。そして互いに気づくことで、また成長して影響を与えあう。それでなくては、人が生活をして他人と関わる意味がない。

参考文献

2010年10月1日

金縛りに似たもの

昨日、昼間に疲れて横たわっていたら、不意に右の拳が重くて動かせなくなったのに気づいた。

昔に自己催眠やそのほかの瞑想に凝っていたので、これは シュルツが提案した七段階の自律訓練の初期のほうの 手足が重く感じる だとすぐにわかった。

自律訓練を身体に結びついた無意識が勝手に選ぶくらい疲れていたのかと、とくにネガティブな感情でなくふつうに認識した。そのまま第七段階額の奥と認識してまぶたの裏に感じるものを見ながら、涼しく感じる まで潜って、しばらくして身体も安定してから離脱。

そうじゃないものもあるのかもしれないが、私にとって 金縛り はきっとこういうものなのだと理解できた。