2011年1月22日

戯訳 : 私の孤独 (ジョルジュ・ムスタキ)

ジョルジュ・ムスタキというこの歌手、さだまさしのようなシンガーソングライターとおっしゃった年配の女性もいました。その中でももっとも有名な曲です。

日本では岩谷時子さんの 長い間一人で、一人きりでいたから と始まる訳詞が有名。私も子供の頃にこの訳で馴染んで、ムスタキの歌を聴きながら、ほとんどこの日本語で受け取っていました。いまざっくりと探したら、youtube に上がっている ほのかさんのライブ映像 なんか、典型的な日本での唄われかたですね。

いや、私もこんな感じでカラオケ唄ったことがありますとも。はい。

一昨年くらいから、ちょっと岩谷訳では綺麗すぎる、前向きすぎる。もっと泥臭く訳せないかなと思いはじめて。ちょこちょこと断片をメモっていました。

なんとなく、今日二番・三番の部分を一気に訳して完成。

いや、たぶん旋律に乗らないと思います。詩として訳したかったので。

ひとりの孤独に耐えながら
あまりにたびたび眠りすぎ

いつしか甘い習慣に
あたかもひとりの恋人に

一歩たりとも離れずに
影よりぴったり尾いてくる

どこへ行っても離れずに
世界の果てまで尾いてくる

一人ぼっちと言わないで
孤独に耐えているだけさ


ベッドに僕がやすむとき
隣はあいつの指定席

二人で夜を過ごすのさ
互いの顔を見つめあい

ホントに僕にはわからない
何をしたなら逃げられる ?

好みを変えたら良いのかな
諦めるよりないのかな

一人ぼっちと言わないで
孤独に耐えているだけさ


何度もあいつに泣かせられ
いくつものことを教えられ

何度もしらないふりをして
それでもあいつは離れない

愛を選べば選ぶほど
その相棒としてついてくる

孤独は僕のお友達
最期の日すら診とるだろう

一人ぼっちと言わないで
孤独に耐えているだけさ

一人ぼっちと言わないで
孤独に耐えているだけさ

fr.lyrics-copy.com よりいただきました

Pour avoir si souvent dormi
Avec ma solitude

Je m'en suis fait presqu'une amie
Une douce habitude

Ell' ne me quitte pas d'un pas
Fidèle comme une ombre

Elle m'a suivi ça et là
Aux quatre coins du monde

Non, je ne suis jamais seul
Avec ma solitude


Quand elle est au creux de mon lit
Elle prend toute la place

Et nous passons de longues nuits
Tous les deux face à face

Je ne sais vraiment pas jusqu'où
Ira cette complice

Faudra-t-il que j'y prenne goût
Ou que je réagisse?

Non, je ne suis jamais seul
Avec ma solitude


Par elle, j'ai autant appris
Que j'ai versé de larmes

Si parfois je la répudie
Jamais elle ne désarme

Et si je préfère l'amour
D'une autre courtisane

Elle sera à mon dernier jour
Ma dernière compagne

Non, je ne suis jamais seul
Avec ma solitude

Non, je ne suis jamais seul
Avec ma solitude

2011年1月16日

雪国より

昨日から北海道にいる。昨日まで札幌。今日からしばらく、もっと雪深いとある街に滞在。

ある時期まで私の父は、家族を連れて冬の雪国に旅行・滞在するのが好きだった。その意味が不惑を過ぎた今ごろ、やっと分かった気がする。

もちろん 意味 なんて来てみないと分からないもので、分からないということだけを最近になって気づいたから訪れたりするのだろう。

本を読んで わかった と思えることは大事だが、もっと深いところにあるなにか。


生きている人、生活している人。生活していた人の言葉を受け止めることには、本を読むことよりも深い責任が伴うのではないかな。そう思える。

日常から出る言葉を受け止め わかった と言ったあと。分かったつもりにしかなれないけれど、受け止めたと言ったあと。積み重ねのあとには、人はその街に行かないといけない。もしも、可能ならば。

相手が異性だと色恋沙汰に見られることもあるが、もっと手前の、人間関係の基本のように思う。私にはね。

ハタから見れば酔狂にしか見えないだろう。自分でも酔狂と韜晦することは多い。だが、わかる人もいるんじゃないかな。


体験をすることで分かるもの。今日の札幌からの行軍でも、それは言葉にして即座に話すことはできない。いや、もったいない。心で受け止めて、自分の体験として味わうことで、より深くなる。出力しているあいだに新たな体験を受け止めそこなう危険も大きい。だから、しばらく沈黙。


そういえば最近、人と語ったと伝えたら、人に話したのかと気色ばまれたらしい。すでに本人にはアクセスがとれず、噂に聞いた。

自分というフィルタを経てから、相手に応じた内容を語ることは、話すのと違う。それを感じ取ってくれたかに、私のことを 用心深い と評してくれた相手と思っているから。思い出すと他の感情を措いて、相手への心配がもっとも先立つ出来事。

2011年1月12日

[独語] 聖者の行進

ふと陽気なジャズが聴きたくなって、検索していてみつけたのがこんな動画。

iphone 欲しくなったり…… しかけた。小中学生のころなら、確実に欲しくなっている。

いや、もうこの年齢になれば。道具をいくら揃えたって、本人に楽器を演奏する能力とセンスがないと良いものはできないって身に染みているから。抑えますけど。ね。

2011年1月9日

走り書き 1月8日

うたた寝をして、起きた。

何が起きたと聞いても、否定しない。(君が言うことなら信じる) そんな姿勢を相手に伝えることの難しさがふと思われた。

こんなことが起きたと聞いても、私は信じた。(君も信じてほしい)伝えかたを一歩間違うと、相手にはそう聞こえるというアヤウさ、脆さが痛感された。

今日、とくになにかが起きたというわけでもなく。言葉にして捕まえそびれた夢が契機だったのかもしれない。

2011年1月4日

たった150人

選ばない人は選ばれることもないし、拒否されることもない —拒否されても心に認識できない— 。

一年と少し前。そんな言葉を吐いた。


この人の友達ならば一度くらい話をしてみたい たいがいの人にはそんな相手がいる。もちろん、まだ選んだことのない人にとっては、そんな相手はいない。すべての人は相等しく、友人。もしくは相等しく他人だろう。

石川幹人氏によると、人類の進化の中で得た 身内 と思える感覚、その人の友達まで信用できる と認識できる相手は、150人が限界だそうだ。

もちろん大まかな数字。100人が限界という人は容易に想像がつく。ならば200人が限界という人もいておかしくないだろう、私には想像がつかないが。

身内に認定しうる量から限界を越えた数の人はどうなるのか。石川氏によると、だが。それは身内でなくヨソの人。ヨソから時々くる、友好的な他人という位置づけに後退するらしい。


たった150人。

あなたはだれの150人に入っているだろうか。

あなたは誰を自覚して選んでいるだろうか。

2011年1月2日

夢・四題

現実ライター

あれは昨年一月に東北を旅する直前。みた夢を思い思いに記載する雑談の場にこんな文を書いた。

他愛なく楽しい夢だったが、銀色の掌に収まるほどの小さな箱が出てきて「こっちの中に入っているのが現実 (いま居るのは夜の夢)」 と説明されたのが興味深かった

小さな箱は、私のパイプ用のライターに思えた。

現実がライターの大きさになり、それを手のひらに載せた私を含んだ夢の世界は縮まり、現実の私の頭蓋に過不足なく収まったところで目が醒めた。本当に詳しく書くと、そんな夢。


その題材になったライター、昨六月から多忙で散らかるままの部屋に行方不明になっていた。年末の掃除で発見。

行方不明になっても探す気が起きなかったのは、火の点きがわるくなっていたから。その原因である着火部を覆い始めていた緑の錆が、より侵食していた。針金で丹念に錆を取り除き、詰まっていた火打石のかけらを取り除き入れ替える。

使えた。

もう、なくさずに使いつづけようと思った。

夢に託して同一視してしまった以上、もうこれは≪お護り≫。私にとっての現実 (に処する心構え) そのものなのだろう。

夢は操作するもの

ユング派は、といって良いのかどうか知らない。河合隼雄氏の遺した著書を読んでいると、夢は分析するものではないと感じる。

夢は操作するもの。引っかかった夢を考えて、考え抜いて。あのときこうしたら良かったのではないかと結論が出ると、得心したときにはそれが叶う。もちろん夢の中で。

夢で虎に襲われて目覚めたのなら、食われて死ねば良かったのにといったノウハウはいくつか学んだ。だが実際、夢でも本当に死ぬことは難しい。

夢を操作できて現実で何が変わるのか。わからない。少なくとも、悔いは減る。

布石は重なって

元旦、夜。

知人の日記に夢の話を読んだ。

半年前に読み、味わい、無理に分析をせずに心に留めておいた夢の続きを見たのだな、と感想を書いた。

また、それとは別に。まとわりつくような の気配、つい秋頃まで馴染みのある が再び重くのしかかり、どうしたことかと思っていたら。

初対面の人と話す機会があり、私と の関わりと同時進行していた、そっくりの話を聞いた。鏡像のように似ていていると思いながら相槌を打っていた。

去年一年の、心のなかにある様々な欠片が。きちんと場所を得て落ち着いていたものも、収まりわるく引っかかっていたものも。つながりをもって動き出している。そんな気がした。

起きて見る初夢

そんなわけで元旦を徹夜して、昼間に睡眠に引きずり込まれる。

よく眠った。 はひとつも見なかった。

起きてから、ふいと秋から今までの出来事、不分明な、わけがわからないと目を背けていたあれこれに、一本の理屈がすいと通った。

視た夢に片端から解釈をつけていると、ついにショートカットして解釈のほうが、覚醒から起床までの半時間で降りてくる、なんて。きっと正月二日、初夢の奇跡。

夜の夢は終わらない。現実さえも、頭蓋に対するライターほどの大きさで夢に含まれるものなのだから。

蛇足

もちろん、学術のことば。世間一般、日常のことばでいえば。夜の夢とは内的現実。

初夢の奇跡ではなく、初夢という信仰・習慣に慣れ親しんだが故に私の心が起こした稀有な現象。