久々に麻雀について書いてみようか
かつてツキの流れはあるか、ないかという話題が長く論を呼んだことがあった。いま現在もどこかでは論議されているだろう。
「麻雀は認識のゲーム」と阿佐田哲也の名前で語った方がいた。その文芸の先輩、五味氏も言った。問題はツキが実在するか、しないかではない。
エラーを自覚したとき、結果に不満を感じたあと、配牌を腐った(悪化した)と感じる。その感覚がベテランであれ無垢の初心者であれ、振り払いがたく襲うということ。それが問題の焦点だ。
ツキが悪化したと感じると状況への対処が鈍る。楽しみも損なう。ツキの有無は無視しても、自分の心や対局相手の認識が変わるというのは、紛れもない真実。それもまた状況のひとつ。
感覚に身を委ねて対処するのも、非科学的だと否定し、プロパガンダして対局相手の認識からも拭い去ることを意図するのも。
私の見聞していた限りではこの二つが双璧だった。他にも対処はあるかもしれない。最も効果ある対策が何かは検証不能だから、一度限りの出来事の積み重ねだから、ゲームに魅せられる人はあとを絶たない。
事象に法則を見つけることに目を奪われ、自分の心の動き、他者の認識の変化という目の前の出来事を無視するのは、「近代知」,「科学の方法論」の罠だな…
というような思いを「河合隼雄対話集」(1994 ISBN4-89583-139-6) や 「臨床の知とは何か」(中村雄二郎1992 ISBN4-00-430203-X) から受けた
追記 04-08
mixi 方面に、まだ私の麻雀について語っていたころの知り合いが多くいらっしゃるので、ふと反応をみてみたくて書いてみた。
あちらの足跡を見る限り、どうも誰も私の麻雀に対するコメント・随想など求めていないみたいね。それはそれで清々しく、すっきり。
0 コメント:
コメントを投稿