2011年8月23日

カラスの愚行、人間の思想

手許にないので第何話、第何巻収録だかわからないが、動物のお医者さん に、カラスの怒りの対象が拡散する話があった。

白衣で眼鏡の教授、漆原氏は永遠のいたずら者。野外ジンギスカンの肉を攫うカラスに復讐を仕掛ける。カラスは怒って仕返しをする。漆原氏はさらにしっぺ返しを続け、カラスの群れはさらに荒れ狂う。

ところが不思議なことに、漆原氏への怒りがあまりに強くなると、カラスは似たように白衣で眼鏡の教授をも攻撃対象とするようになった。抗争が進めば、最後は白衣のものが軒並み狙われる。

おかげで漆原氏の被害は、戦力が拡散したことでむしろ減った。

こんな話だったと思う。カラスはばかなことをすると笑ってほのぼのする、そんなエピソードだ。


だが本当にカラスはばかなのか。

罪を憎んで人を憎まず という諺がある。

誰かの行いに立腹したとき、たとえば 俺が食事をしているときに横で騒いでいたあの家族は許さん から ある程度の格式のあるレストランで五月蝿いのは良くないよね さらに 公共の場ではマナーを守ろう となり、怒りは拡散し、友人・知人が似たことをしたときに、にこやかにたしなめることができる程度に行動が柔らかくなる。カラスと同じではないだろうか。

怒りやトラウマを、対象となる個人に収めずに、汎化することで法律やマナーが生まれ自らをも律する。それを人は文化と呼ばないだろうか。

怒りを分析して背景となる相手の行動原理を否定することで、個人を怒りの対象から分け、腹の虫を収めることができるだろう。

そうありたいと望む。そうあれかし、と願う。

2011年8月10日

8月10日短信

このところ、夕刻と夜明け後の二回に4時間ずつの睡眠というおかしなペースになっていた。とりあえず、日・月と6時間以上の睡眠をまとめて摂ることができた。ただし陽が昇ってから。

火曜日。整えた役所の書類を出すべく、正午に目覚ましをかけて朝また眠る。11時に起きた。睡眠4時間。きちんと動くことができた。温熱効果で肩こりがほぼ治るほどの陽射しであった。

夕暮れのまえ、キャロットタワーの近くで用事がすみ、展望台に。西にみえるのは遠くの大きな平野かと思えば、すぐ近く、砧公園の緑であることに感嘆。いくら近くでも広い。近くにしては鬱蒼(うっそう)としてみえる。

西に夕暮れ、東は青空に白い月 19時前後は大崎の駅あたりで月見をしていた。前日の黄色、火曜日の白銀。きれいで安心を誘う月が続いている。世田谷では例年よりも星が夜空に多くみえる。節電要請で工場の稼働が悪いせいだろうか。

大崎では友人とおいしい店を一軒みつけた。ハレノヒ (畑) という。野菜の蒸し煮がウリの、廉価な店だ。

ぶらりと赤坂見附。かつてオフィスの近くで常用していたバール デルソーレ の、イタリアなコーヒーが恋しくなったせいだ。メンタロー ( menthe a l'eau. / ミント水 ) が飲めなかったのは残念だったが、満喫できた。赤坂から小田急線を経て帰宅。

睡眠が短かったので、きちんと夜のうちに眠れた。が、三時間も経たぬうちに悪夢で目覚める。

悪夢だが悪くなかった。怖いが、わかりやすく昼間の生活で何に注意すべきかが示唆されたということだ。とはいえ 陽気な音楽 を聴き、外があかるくなったので公園に煙草をふかしに出る。

猫、カラス、雀。そして誰ぞの鳥かごから逃げたものが増えたと思える、オウムのような緑の小鳥が三羽戯れるのと、東の空が明るくなるのをみてぼんやりと時間を過ごす。

近所のスーパーで、ミントのハーブティがあったのを仕入れて7時前に帰宅。今日は、このまま一日を有意義に過ごせそう。気分の良い朝だ。

2011年8月4日

マイ・ストーリ

あいつのモノガタリ = his story とかいて history (歴史) と読む 、どの著作だったか忘れたが、故・河合隼雄さんの言葉だ。

河合氏は 自分のモノガタリ、自分の内的現実をつくれる力がみなにありますよに と願っていた。他人から借りてきた history ではなく、My story

たとえば講演会に行く、勉強会に行く。ふんふんと頷いて、絶対不変の真実としてメモをとっているようでは、個が弱い。講師の内的な動機はなにか。なにを求めてこの説を主張するに至ったのか。そこに注目するとみえてくるものがある。言っている内容への理解も深まる。

講師の内的現実を聞き取り、理解しようとすることで、同時に客観的にもなれる。巻き込まれない。ある程度の大人ならばできる。

唯一無二の真実がどこかにあるはずで、自分がしらないだけ と思い込んでいる幼稚なひとに危険思想と罵られるだろうけれどね。


じつはこの記事、どこまでが河合さんの著作からの受け売りで、どこからが私のオリジナルだかあまり自信がない、正直なところ。

よくいえば、河合さんの書籍が血肉になってしまっている。悪く言えば区別がなくなっている。

だが、少なくとも、これが唯一の生きる正しいみちだとも思っていないし、河合さんの著作に感心した人ならばみな同じことを言うだろうといった期待もしていない。私が自分で選んだ、自分の納得のいくことば。