2010年12月20日

宣言

先月から今月にかけて、共通の友人をも巻き込むような形で複数のトラブルが表沙汰になり、それぞれにきちっと受け止め、苦しんだけれど。

父親っぽい愛というのは、相手が自分から離れ、精神的に自分を殺したことを喜べる愛。そんな愛し方を実現することができたらというのが、今年はじめの冬からの想いだったので。ある意味納得。

そして、精神的には苦しみ、一度は殺された様子も見せるけれど。現実の私はこうしてピンピンしていると、もしもいつか相手がこちらを振り向くことがあったら、元気に手を振ってみせるのも必要だよね、とそんな居直りにも似たことを考えている。

2010年12月16日

九日前倒しのクリスマス

15日、娘とミュージカル を観てきた。来年は中学生。そしてきっと、気軽に会える最後のクリスマス (として過ごす日)


客席の子供たちに向かって話しかけ、盛り上げて始まる演出や台本のままの冒頭。うしろの音楽が生演奏じゃないし科白が多いから、客席に間を合わせられない。北島マヤでもあの状況では無理だろう。対象は子供なのに生硬な訳語だらけ。そんな雑念と批判から入った観劇だった。

舞台を広く使い、大道具はなく、登場人物が三人になったあたりで、生の舞台の観かたがだんだん思い出されてきた。せっかく TV カメラ越しではないのだから、空間全体に気持ちをおいて、話の筋や、逆に気持ちのスポットが当たっていない演出や演技のすべてを見ようとせず、気ままに感じていた。

河合隼雄に 舞台は心、原型は登場している役者 という説明があるが、まさにここからきているのかと体感できた。この芝居の筋では、主人公の父親は独り寂しく忘れ去られることがテーマだし、ヒロインの父親は燃やされて廃墟。全体の父たる町長に至っては言及されるだけで出てこないとか。娘と観にいって父親が感じとる内容としては皮肉なものがあるんですが。いや、娘の年頃からタイムリーか。


舞台全体を、右脳・左脳の両方の機能を意識して感じていたせいだろうか。ふたつのできごとがあった。

ひとつめ。舞台の音楽にリズムをとって手足を動かしたくなりこまる。いや、それは普通か。耐えたつもり。

ふたつめ。寝不足で帰宅してすぐに眠ってからのあと、夢。ストーリでなく写真が夢の中を動いていた。ひとつひとつの写真は風景だったり華だったりするのだが、現れて、動いて、自分の体のなかに沈み込んでいくことが繰り返される夢。ちかごろ得た価値観にしたがい、過去の出来事を整理しなおしているのかと感じた。願望かもしれない。

寝言に意味なく明瞭な単語を叫ぶように、片手・片足といった単位で意味はないのだがアップにしたら目的があるかに見える動きをしているのを感じていた。寝返りの原理の大げさなものだな、と分析しながら、動くに任せていた。

四肢の寝言が収まり、さて寝不足が続いているし外も暗い。二度寝しようかと思っていたが、水道の水をコップに注いで飲んで、起きた。

まぁ、なんだ。今年は動かなきゃと思いながら体が横になったまま動いてくれないと嘆く日が多かったから、逆に頭は二度寝するつもりでも体が勝手に起きてくれることもあるのだろう。初めてだし、驚いたが。

前々日くらいに、尿意を感じてから、トイレに立つんだと体に命令するまで、全部を意識した思考で明示的に決めて、かつ時間が掛かるのはどうなんだ。ふつう他のこと考えていたら、とくに意識せずにトイレに行かないか ? ふつう = 多数派に属することに価値はないが、前は意識していなかったし、そっちが楽だった。とくに意識するメリットはない。そのあと自分の育て方を間違っただろう、と。

反省とが心に染み、かつ役割を担うべき、右脳 (の担当と仮説されている機能 ) の動かしかたを観劇で思い出した結果かな、と。


どうやら、娘に前倒しでクリスマス・イヴのプレゼントをしたら、私自身へのプレゼントという形でそんな機能が蘇ったらしい。

2010年12月12日

善人なおもて往生す

善人なおもて往生す、いわんば悪人をば 親鸞の言葉と記憶していた。調べると、その師匠の法然の言とされているらしい。

李下に冠を正さず というのは、李を盗まれることを持ち主が怖れているという想像力がないと果たし得ない。ときとして、あまりに無警戒だと、知らずに李下に冠を正すような真似をして非難される。非難した人が悪いわけじゃない。非難された側も、うかつではあるが悪くはない。だが、あまりに善人だとはいえる。

はやく芯からの 悪人になって、指差されるときにははじめから覚悟して汚名を被るときだけという境地に至りたいものだ。無邪気な善人はろくでもない。

善人は、崖から落ちてはじめて自分のいる場所に気づくらしいよ。

2010年12月5日

遊んだ記録を、ひさしぶりに全部書いてみようか

昨日は、0時から6時まで眠ったあとに、14時から19時でもう一度眠ってしまった。起きたときに喉が少し痛かったのは、昼寝で風邪をひいたのか。それとも月曜の歯の治療跡から出てきた蓄膿のような鼻水への反応か。

明け方に眠り、起床して13時。十年ほど前の同僚と15時に横浜で待ち合わせをしていたので多少、あせる。遅れても良いかと連絡をしたあと、間に合いそうな気配がしていた。が、強風のため、東急東横線よりも速いはずの JR が遅延して、やはり遅刻。

ダイエット中の元同僚と、適当に入ったのは西国の薄い出汁汁でうどんを食べさせる店嘉禾屋。九州からと思える魚のすり身の天ぷらが美味しかった。酒をのみ、つまみでまったりしながらしばらく近況を語り合う。

鯨統一と霧舎巧、ふたりの日本の現在の推理小説の名手が舞台にしている みなとみらい を見たくて、この街の同僚にねだり、酔い醒ましを兼ねて歩く。バブルが弾けてよかった。工事中の平地もなければ、この街は高いビルに挟まれて圧迫感のありすぎる、歩きにくい街であっただろう。

みなとみらい。なんだ、ここか。五年ほどまえ、ポケモンセンタを求めて娘ときたな。けっきょく、チェーンの廉価なコーヒーショップでさらに小一時間だべった。話題は、コの業界、ことに Web 関連に多い鬱病の話。

鬱は病気ではなく症状の総称だ、というのが去年までの私の意見であった。問われて、改めて今の自分の考えを言葉にすると。鬱は、反抗期と同じ。それまでの自分の生き方・考え方・責任の範囲ではカヴァーしきれない想いを受け止めて、考えを変えて乗りきらないといけないという心身からの訴え。もしも薬で気力をカヴァーしているうちに考えを改めることができなければ、けっきょくは前の考えを延命しているだけなので、外部の状況が変わらなければカタストロフに陥る。

あとは、そうだな。ベンチャー企業や新業種というのは賭けであることを忘れてはいけないという話も、流れの中で出た。博打である以上は、見返りがあるかないかは分からない。結果は時間が経たないと出ない。それを、出資者にバラ色の夢を描き、すぐに収益が上がるようなことをいうものだから、働き手は業種のヴィジョンの中に含まれなかった即座の実益を求められ、板ばさみになるのではないか、といった。

開通後はじめて市営地下鉄に乗り、元同僚は横浜郊外で下車。私は終点から東急田園都市線に乗り換え三軒茶屋で降りる。

夜、21時。前に娘と訪れたcup bearer に入り、煙草を服う。ワインをベースとした薄いカクテル (なぜかストローが二本) と、エスプレッソのダブル、合わせて 1,050円。( 夜食に蕎麦をたぐりそうな勢いだったが、これだけで満腹になったのは健康に悪くない )

キャロットビル一階に店を出している石の店 をみて、スモークの入った水晶と男物のチェーンを衝動買い。

書店で クラウドとプラットホームでいま何が起きているか を買ったのは、久々に Web 業界の住人と会ったからだろう。悪くない本だ。

そして文庫で出ていた 恋愛脳 ~巷間に揶揄される、恋愛ボケして、なんでも恋愛に結びつける思考回路の話でなく、まっとうな本のようだ~ を購入し、帰宅。