2010年6月23日

環境オタク

開発の現場に戻ると、私が手を動かそうとしない時間は、人より多く見えるのを改めて実感する。

C 言語でこの業界に入ったときから プログラムを書かないプログラマを目指す と言いつづけているしね。

どこまでをプログラムにやらせ、どこを人間が行うのか、問題の解決に向けた最短時間をいつも計っている。考えている。だから手を動かし始めるまでが遅い。動かしてからも、よく手を止め、喫煙所に向かう。

他の人の仕事内容をつかむためにも、喫煙所をよく訪れるが。

それでも、うっかり時間を割きすぎてしまう箇所は私にもある。

環境設定だ。自分の武器は unix/shell を良く知っていて、便利なツール・設定を状況に応じて繰り出す小技だと思っている。状況分析 6割、応じた開発手法の編み出し・使用するライブラリ/モジュールの導入 3割、開発 1割。

だからこそ、自宅環境は便利な設定でいっぱい。最新のツール(やライブラリ) を常に揃えようとする。最新をとりあえず入れていると、時間がとられることは多い。

などと、過去 15年の 自分がこだわってしまう、非効率になりがちな場所 を今朝反省していた。つまり踏みとどまることができた。

単に、外部から自分のデスクトップに ssh する方法 を設定していて、このマシンでは公開鍵/秘密鍵の設定をまだしておらず、パスワードアクセスになると気づいただけだ。

一日、二日で推測されるようなパスワードじゃあるまいし、その設定は後日にしておけとね。

最近まで、この手の環境の不備に気づくと、うっかり徹夜してでも仕上げていた。今回、一週間。朝の出勤前での作業を心がけていて、やっと自分の環境オタクに気づけた。

2010年6月19日

復職しました

一部の方々にはご報告していますが、改めて。今週から復職しました。

この言い方だと誤解を招くこともあるみたい。前と同じコンピュータ業界、開発の現場で仲間とともに働く、という選択を実現することができました。今まで付き合いのなかった、職場であり、仲間たちです。

面接から会話の流れが特殊。昨晩、私を含めた三人の歓迎会が名目の宴席の会話も特殊。無難に人と同じことをしようとする のはあきらめ、やめたので仕方がないのだけれど、やっぱり誰かに こんなことがあったんだけれど、どう思う ? と、翌日・翌々日は言いたくなります。

面接のときは、言って喜んでくれそうな相手がいなかったので独りで考えていると、色々の発見がありました。だから酒席の会話も、きっと誰かに話して流さずに受け止めたら、なにか発見があるのでしょう。

ネタにするのは簡単。でも、ネタにしないほうがもっと価値が上がる。

2010年6月14日

エドワードの決断、ハイタカの修行

おととい土曜日、月刊:少年ガンガン の七月号を買った。危なかった。前日に発売されて、普段20冊ほどが平積みで置いてある書店で残り二冊。当たり前だ。人気長編鋼の錬金術師 最終話の掲載なのだから。値段も、普段より一割高かった。(そのぶん付録が豪華なのだろう。見ていないが)

売れ行きの予想される号に合わせて、他の話も今号は見どころ満載だった。喋らせればいくらでも喋れる気がする。喋らないけれど。どこのシーンが見処だ、おもしろい なんて話は、他のシーンと比べて「うえ・した」の話は、「うえ・した」の比較対象、バックボーンを共有する相手だけに語れば良い。

で、ハガレンの結末。もろにネタバレだが、その更に先があるから良いだろう。

エドワードは、錬金術を捨て去ることですべてを取り戻すことができた。

そういえば、アルフォンスは錬金術を捨ててもいないのに、なぜ…… おっと、真のネタばれをしてしまうところだった。自粛自粛。

思い出すのが、ゲド戦記 だ。魔法使いは魔法を習わない。魔法を自制すること、できれば使わないことを学ぶ。

無自覚に魔法を使っていると、さまざまな事件を起こす。うっかりと大きな勝ちを収めてしまって、反動で人を損ない、影に飲み込まれる。自覚して魔法を使わないように訓練することではじめて、魔法の本当の使い方。ものごとをうまく調和させておさめることができる。

と、ゲド戦記に書いてあったはずだ。

魔法とは人の弱点を見抜きつつく力で、見抜けるのだからつつかずに、波風を立てずに処理することができるようになるんだよ、と。近年までネットの各種コミュニティで事件ばかり引き起こしていた イニシャルY の通り名で知られていた男がこっそり呟いたかどうか。それは秘密の話。

2010年6月7日

Local tweet

何人かの人が twitter で思考を垂れ流しにしているのを見ると心配になる という。

ある人は 人前で言うべきでないこともあるだろう , 別の人は なんだか一人の頭脳じゃないみたい , また 自分が実名で、公に発言する人間なのを忘れているだろう。立場を忘れるなよ と。

去年一年、twitter ではない mini blog で遊んだせいで。私もそれぞれ同感のコメントを、口頭で、あるいは文章で寄せている。自分は引きずれられる体質・性格だからやめておくと、前に書いたこともあった

最後の何年かの悪名が高かった私の前の日記も、文章は長いが tweet のようなものだった。技術のネタ以外は。一度は通過するのかもしれない。まだそんなシステムができていなかったころは公にならなかっただけだろう。それこそが、まさに 中二病

公にすると差し障りがあると自分で気づいてから、ちかごろは自分のパソコンに向かって、またときに紙のノートに tweet している。まさにエセイ。パンセ てもともとそんな本だったよね。死後に発表されたノートだったよな。

今日は二日酔い。午後に飲んだ酒が、眠っていると頭に回ってきて、アテもなく結論も定めずにぶらぶらと書き連ねるのを解禁して、この文章を書いた。書き溜めた断片でもお蔵出ししてまとめてみようかと始めたが、いいや。新しく考えながら文を連ねるほうが楽しい。

人が思考を途中で放棄して、文章に垂れ流す。別の人が反応する。考えの形も知識もそれぞれ違うから、ある程度は楽しい。一人では生み出せないような考えも生まれる。

でもね。発言者の個性がだんだんに見えてくると、それぞれ別の人格、別の生活が、頭の中で勝手に動き出し、読んでいるうちにいろんなものが視えてしまうんだよ。

自他の区別がつかない状態は楽しい。自他の区別がまったくつかないのは、哀しい。

2010年6月3日

打ち明け話

本人の許可を取って、近頃できた若い友人との話から考えさせられたもろもろのこと。

6月1日、夜

心理学・臨床を目指している友人だ。卒論のために聞き取りの資料を蒐めるという。切り口は 自然性の欠如 という。

単語を読んだ覚えがかろうじてある程度、じねん と読むことすら知らなかったので詳しく説明を頼んだ。

普通の人が引っかからないことを考えてしまって、生活をすることができない方がいらっしゃるのです。

たとえば 自分の生きる意味は何か , この世界はいつまで続くのか 。思いつめて自傷にいきついたことのある協力者からお話を伺い、SOC 検査をして、卒論にしようと思っています。

普通の人 、ねぇ。私自身、その交友関係。引っかかったことのない人のほうが思い当たらない。二十代の何人かは 厨二病 と表現する。だが、それが宗教・哲学の始まり。それを考えたことのない臨床心理学専攻がいるとは思わなかった。

(私) 教えてあげる。自然性の欠如 て、自分の鼻が見えて、気になって仕方がないということだよ。

(友人) あー、それうまい喩えですね。

(私) 喩えじゃないんだ。今晩眠るまで、明日一日、自分の鼻が見えることを意識して生活してごらん。それが終わったら、検索してどんな病名をつけられがちか探してご覧よ。そして森田療法の創始者が、なぜ自分がトレーニングをしないと日常に返れなかったか、文献を調べてみると良い。典型的な症状が見つかるよ。

卒論方針の発表のあと、来週に会うことになっている。どこまで鼻が見えることが気になっただろうか。学部の他の学生は、どんな感想を抱き、どんな質問が投げかけられるのだろうか。理解した顔をする人はどれくらいの比率だろうか。

会うのが、とても楽しみだ。

6月2日、夕刻

仕事の打ち合わせの帰り、遠方の、前から二人で会おうと言っていた別の友人と割り勘で飲む。

鼻が見える人、見えない人がどれくらいいるのだろうか。

あの人は、鼻が見える。あの人の見えることを前提にした科白は、心に響きすぎて、読みつづけることができない。あの人は、自分だけが鼻が見えると思って孤独な思いを抱き、言葉で他人に押し付けようとしているのが辛い。心に響くから言わない人、目を逸らす姿勢が見える人、心に響きすぎるから反応しない人、あぁ。あの人は見たことがないかもしれないね。

共通の知り合いについて、そんな言挙げをした、かもしれない。

行為・行動についての陰口は嫌いだが、そんな人物評ならば心置きなくできた。

目を逸らしている人は多いが、見えたことのない人は、やはり稀だろう。そんな結論に達した。

6月2日、朝

この二つの会話の合間、一人で考えることに耐えきれず、久々に外部に放出した。

心に影のある人が理系に走り、陰を理解したことのない人が文学・哲学・心理学に走る。なにかオカしくないか。何かから逃げていないか |04:19 AM Jun 02, 2010|

自分に「ないもの」だから憧れるのか、自分に「内在する影」だから呼ばれるのか |04:26 AM Jun 02, 2010|

影がありながら能力を併せ持ち、理系に走る人がもっとも躓く。影がないのに他人の闇に寄り添おうとするものはどう生きるのか。隠れた影はあるのか ……あるよな |04:31 AM Jun 02, 2010|

「貴君の影を探そう。夜の闇は恐いかい? なにがワケもなく恐ろしい ?」 「卓に山盛りのまんじゅう、そして熱い茶が一杯怖いね。ヘヘヘ」 |04:36 AM Jun 02, 2010|

久々に「思索を」呟いた気がする |04:41 AM Jun 02, 2010|

「過剰なる才を持てあまし」と評論家がいうとき、誰の心に比べて過剰なのか。評論家本人 ? それとも無能・無才の仮想読者 ? |04:40 AM Jun 02, 2010|

一度は自覚しながら、逃げている対象が心の「影」か。内在して自覚したこと、怖れたことが一度もないのは「闇」か |04:46 AM Jun 02, 2010|

多少、言葉の遊びに偏った、直観ベースの連想思考だ。ここまで放出して、やっと眠ることができ、仕事の打ち合わせ、上記の人物評をした飲み会に至れた。

再び、6月2日夕刻

オカルト、東西の宗教、心理学。

みな表現が違うだけで、じつは やるべきこと は、処方は同じだと最近つくづく思う。そんな話もして同意を得た。

もちろん、当てはめた論理が 鼻の見えない人 に誤解され、あるいは 自分だけが鼻が見える。すごい能力だろう と誇ることで、さまざまの歪みが生まれる。

歪む形は、各理論で別。私は何種類かの体系で表現し、理解することができるが、とくに統一して体系にする必要は感じない。どの体系も歪むからだ。

そんな話が、二人で共感を紡ぐうちに生まれる。こんな付き合いなら、深くて親しくない関係は悪くない。

自分の鼻が見えることから、意識を逸らす人には嫌われる。公開の場所で多く語る内容ではない。会った人に合わせ、相手の状態、相手の体系に合わせた言葉で、ただ共感しつづけるだけ。

たまたま、自分と同じ辺りの位置にいる若い友人もいると、翌日に実感できたのは本当に幸せなことだ。