2010年3月22日

狂気は相対

1.

社会に適応できない症状を狂気といい、本人が生活できないと周りも困るから治療対象となる とは前から常々言っている。

人の精神/思い込み。奥深く踏み込めばそれぞれ個性がある。言い換えれば差異。それぞれの能力の配分にも影響されるが、同じ能力配分でも培ったものが違うだろう。

誰に、どこまで明かすか 、それを信頼とか *情とか呼ぶ人もいるだろう。深く明かせば、それぞれに差異が出てくる。

差異を認め、違うものとして認める、あるいはすり合わせて同じ世界観にする。いわゆる 、その根本の動きだ。

どんなに差異が小さくとも、相手に対する興味 = 愛を失ったら、もう擦り合わされることはない。

片方が 違うものとして受け入れた ときに、もう一方が 世界観を共有できた と錯覚すると、徐々に人間関係に亀裂が入ったりする。生身の人間ではなく、会社や社会、国家でも。

ひとむかし前、精神分析医の岸田秀氏が、世界観のことを 共同幻想 という名前で呼び、広めようとしていたな。内容はだいたい同じ、と思う。サワリしかかじっていないが。

会社に不適応な技術者が 周りから気違いを見るような目で見られる とこぼしたことがある。社風という名前で呼ばれる世界観から外れていることを隠さなかったら、そのコミュニティの中では気違いと認定される。当然のはなしだ。

2.

ひさびさに、脳梗塞の後遺症で片言しか口にすることのない父と話してきた。酒を携えて。

理系のセンス、能力をどれだけ常用しているか。言葉の選び方にもたせた意味の重さをどれだけ受け取ってくれ (ている気がす) るか、逆に受け取った(気がする) か。そこで響きあえる相手が、理系センスのある文系集団である 東京銀行 (1950頃〜1990頃) という選別された空間でどれだけ居たか、と。

名前を挙げられるほどに少なかった。そんなものだろう。社内 2〜3千人とつきあい、片手の指で足りる。

異端とはそういうことだ。それを社会にすり合わせ続けた父を、心から尊敬する。

3.

2月から小学5年生の勉強をみている。

歴史をみて、定説はそうだが実際はココまでしか証拠がなくてあとは推測だ、なんて与太を飛ばしたりする。地球温暖化の原因にも異論があることを話したりする。常識はこうだ、という話もした上で。

高田崇史や井沢元彦から受け取った理屈を、日本の気候の話から、花といえば桜か梅か、管原道真はなぜ神として祭られたかなんて話の根拠にしたりする。

文化はそれぞれ類似する。共通したものを挙げれば連想が働き想起しやすくなるかと思うから、話はどんどん拡散する。共通と差異とを同時に話す。

算数は思考ではなく技能だ、なんてことも平気で言う。いや、観察させてもらい見つけた (=教えられた) のかな。

仮説ばかりの学校の勉強から、なにを正しいと信じたら良いのか と問われる。むろん答はない。ただひとつ言えるのは、算数/数学 だけは大学に行ったからとて習った内容を覆されることはない。数学が正しいからではなく、正しいという概念は中世以降数学を基盤としているからだ。そんな話もする。それ以前からの人間の思考形式、宗教や哲学、世界観については未だ語らない。

宗教や哲学といま書いたが、宗教は世界観そのものであり、哲学は世界観を分析する学問かな。

0 コメント:

コメントを投稿