2010年3月20日

blog / mini blog / 事件

ミニブログとブログ

水曜日を境に、いままで10ヶ月半のあいだ熱中していた ミニブログなコミュニティにさっぱりコミットしていない。理由はさておき、こんなことを書いた人がいるそうな。

つまり「Blogger」の開発に関わったメンバーによって、そのブログサービスが世に 隆盛し始めた頃には、すでにTwitterは構想されていたということになる。

blogは予め死んでいた。

ミニブログの言葉は文脈のことば、思考をみんなで紡ぐもの、という感覚が前からある。対してブログは、個人の紡ぎ終えた思索を発表する場として構想された。

ギリシャ神話、物語、宮廷詩。作者という存在はない。記録したひとの名前は残っていても。

語り部は集団であり、流れの中から場全体を流れる根底の思考が言葉になって顕れてきた。それは夢に似ている。無意識と表現しても良い。語り部とはそういう役割だ。

近代になり、自我が確立してから、個人の思考が個人の名前において語られるようになった。デカルト以降 とよく表現されるが、実際には自我の意見が表明されるという現象が先にあって、それを考察して文章に起こし、現在に残った初めての思想家がデカルトなのだろう。どうでも良いが。

近代「知」=自我と親和性が高いのが blog であり、語り = 無意識 と親和性が高いのがミニブログ (マイクロブログ)。どちらが優れているわけでもなく、そんな分類ができる、かもしれない。私の周りは観察したところ、そんな感じ。

会話よりも意見表明のほうが、技術的なプラットフォームの構築が技術的に楽だし、先にシステムができあがる。なんの不思議があろうか。優劣ではない。

炎上

ふと、小田嶋さんが小田嶋節を展開しているのに久々に出会った。

おそらく21世紀のコラムニストにとって、最も重要な資質は、炎上の火加減を調節する際の手際なのだと思う。まあ、一旦燃え上がってしまったら調節もへったくれも無いわけだが。

われ、それでもクジラを愛す

炎上という言葉には負のイメージしかないが、たまに素晴らしいものが産まれることもある。火加減は調整できないが、意識のもちかた一つであとにつながる事件が起きたりするよね。

なんてことを考えていたら、読んでいた本にそっくりの記載があって笑ってしまった。

それは試問というよりは対決に近い様相になった。しかしながら、その間にJ女史は何度も事態を柔げようと努力し、陪査として同席していたフレイ先生は、場をとりなすような発言をしてくれ、私自身も何とかスムースに事が運ぶようにと努力するのだが、駄目なのである。それは雪道でスリップを始めた車のように、いくらハンドルをまわしても運転者の意図を無視した暴走を続け、衝突を避けることができない

(略)

多くの人は私が失敗したことの自己弁護をしているとしか思わないだろう。決定が下されるまでの幾日かを私は全く憂うつな気持ですごした。一時はJ女史に和解の手紙を出そうとさえ思ったが、どうしても書けなかった

(略)

ミスターカワイ、あなたは今まで何事もあまりスイスイとやってゆくので、イエスマンではないかと、われわれは危惧していた。しかし、最後になって研究所を揺るがすほどの大きい No! を言ってくれた。これで、われわれは安心してあなたに資格をあげられると思いました

(略)

後に河合氏は、フレー先生と資格試験のことについて話し合った。

(略)

またフレー先生は次のようにも言った。資格を取得しようとする人は、教育分析の過程で一度は相当な危機におちいる。そしてそれを乗り越えることが大切なプロセスなのだ。ところがあなただけは一度も危機におちいることなく成長してきた。とても不思議だった。しかし、一番最後の段階になって、あなたは大変なデプレッションを体験した、と。

(略)

これらすべてのことが、まるで私という人間が(略)一人立ちしていくためのイニシエーションの儀式として、巧妙に仕組まれたものではなかったのかとさえ感じたのであった。

すべてのことが、あまりにもうまくできている、とマイヤー先生に報告すると、まったくうまくできてるねと満足そうであった。そしてところで、そのすべてをアレンジしたのは誰だろう、と河合氏に問いかけた。マイヤー先生は言葉をついで、私でもないしお前でもない。ましてJでもなく研究所が仕組んだのでもないと言った。しばらくの沈黙後、誰がアレンジしたのだろうかと再び問いをくり返したが、それは自分自身に向かって発せられているようでもあった。

(略)

大切なことはこのようなアレンジメントが存在すること、そして、それにかかわった人たちがアレンジするものとしてではなく、渦中のなかで精一杯自己を主張し、正直に行動することによってのみ、そこにひとつのアレンジメントが構成され、その意味を行為を通じて把握し得るということであろう。

河合隼雄 心理療法家の誕生 (大塚信一 2009) p.325〜330

引用としてはあちこち表記がおかしいけれど、すべて ママ です。いちいち書きませんでしたが。

なんというか、自分で炎上を起こしたり支配したりできると言わざるをえないところが、コラムニストという の商売の限界。事件って、起こそうと思って起きるものじゃないだろ ?

私とミニブログ

というワケで、口はばったい言い方をすれば、 として向き合わないといけない事件の渦中にいるので、集合的無意識に巻き込まれたくないので、しばらくミニブログサービスを離れている。アクセスしたくない。そういうこと。

性格というか体質というか、巻き込まれやすい個性の持ち主だから離れているというだけの話。誰もが重要な決断を必要とするときに、ミニブログを離れないといけないわけでもない、と思う。

時がくれば戻る。良くも悪くも、決着がつけば戻る。きっとね。

2 コメント:

藍森翔 さんのコメント...

言葉についてさっき、こんなののTumblr見付けましたよ!
http://www.hosp.go.jp/~shoraiso/shinri/rouka.html

Unknown さんのコメント...

> 翔さん
関連がわからない……

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