2010年1月23日

愛について

相変わらず、青臭いことを書く。


しばし前に、どこかに書いた。

愛は受け取る側が感じるもの、恋は思う側が感じるもの

その舌の根も乾かぬうち、昨日、妙な詩が浮かんだ。

神はあなたを試さない

神はあなたを愛さない

それは等価

神の愛と人の愛。それはなんと違うことだろう。

ここでは、ユダヤの神、律法の神を暗黙に仮定しているのだろう

人は、相手の価値判断でしか相手を愛することができない。

熱狂的な愛が醒め、相手を冷静に個人として認識した時に、はじめてヒトとヒトの対等な関係が始まり、生活が始まる。それには時間が必要だ。

ちかごろ、こんなことを考えていた。

個人と個人の付き合いだと思うから終わりに耐えられない。相手を崇拝し、師弟関係になってしまえば、終わるのが当たり前。

世の中には、今まで出会った人、みな師匠ですよ とうそぶく人もいるが、別れを達観するための科白かもしれない。

また、ちかごろ。人というのは本当に多面体なのだと思う。

多面の全てを受け入れてもらいたいと願うのは、所詮エゴに過ぎないのだと。自分自身の全ての面の、全ての成長の過程を記載したとして、それを、知識のバックボーンの違う相手に理解させること、自分が受信することを考えれば、いかに難しいかわかるだろう。

きっと、相手に飲み込まれてしまう。

自分の、すべての側面を見せたいと思うのが恋、無条件で受け入れたいと思うのが愛か。

ならば、愛と生活は両立しない。個人と個人の付き合いは、もっとぶつかって互いに火花が散り、変わり、変えていくもの。それが生活。

神の愛は、正しく自分の基準に沿うものだけを受け入れる。だからこそ絶対。だからこそ、人はカミになってはいけない。

2 コメント:

典 さんのコメント...

 ラブとアガペーの比較論をしてもあまり面白いと思わないよ。

 古来、カミを目指したヒトは数知れない。
 しかし、その誰もが失敗した理由は、愛を意識したからじゃないだろうか?
 

pipe drinker さんのコメント...

エロスは「恋」の位置付けで考えていました。

mixi に足跡が山程ついていたのは、題名で面白いこと書いてありそうだと期待を煽ってしまったのかな ?
まぁいつもの調子です。

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