現実ライター
あれは昨年一月に東北を旅する直前。みた夢を思い思いに記載する雑談の場にこんな文を書いた。
他愛なく楽しい夢だったが、銀色の掌に収まるほどの小さな箱が出てきて「こっちの中に入っているのが現実 (いま居るのは夜の夢)」 と説明されたのが興味深かった
小さな箱は、私のパイプ用のライターに思えた。
現実がライターの大きさになり、それを手のひらに載せた私を含んだ夢の世界は縮まり、現実の私の頭蓋に過不足なく収まったところで目が醒めた。本当に詳しく書くと、そんな夢。
その題材になったライター、昨六月から多忙で散らかるままの部屋に行方不明になっていた。年末の掃除で発見。
行方不明になっても探す気が起きなかったのは、火の点きがわるくなっていたから。その原因である着火部を覆い始めていた緑の錆が、より侵食していた。針金で丹念に錆を取り除き、詰まっていた火打石のかけらを取り除き入れ替える。
使えた。
もう、なくさずに使いつづけようと思った。
夢に託して同一視してしまった以上、もうこれは≪お護り≫。私にとっての現実 (に処する心構え) そのものなのだろう。
夢は操作するもの
ユング派は、といって良いのかどうか知らない。河合隼雄氏の遺した著書を読んでいると、夢は分析するものではないと感じる。
夢は操作するもの。引っかかった夢を考えて、考え抜いて。あのときこうしたら良かったのではないかと結論が出ると、得心したときにはそれが叶う。もちろん夢の中で。
夢で虎に襲われて目覚めたのなら、食われて死ねば良かったのに
といったノウハウはいくつか学んだ。だが実際、夢でも本当に死ぬことは難しい。
夢を操作できて現実で何が変わるのか。わからない。少なくとも、悔いは減る。
布石は重なって
元旦、夜。
知人の日記に夢の話を読んだ。
半年前に読み、味わい、無理に分析をせずに心に留めておいた夢の続きを見たのだな、と感想を書いた。
また、それとは別に。まとわりつくような 夜
の気配、つい秋頃まで馴染みのある 夜
が再び重くのしかかり、どうしたことかと思っていたら。
初対面の人と話す機会があり、私と夜
の関わりと同時進行していた、そっくりの話を聞いた。鏡像のように似ていていると思いながら相槌を打っていた。
去年一年の、心のなかにある様々な欠片が。きちんと場所を得て落ち着いていたものも、収まりわるく引っかかっていたものも。つながりをもって動き出している。そんな気がした。
起きて見る初夢
そんなわけで元旦を徹夜して、昼間に睡眠に引きずり込まれる。
よく眠った。夢
はひとつも見なかった。
起きてから、ふいと秋から今までの出来事、不分明な、わけがわからないと目を背けていたあれこれに、一本の理屈がすいと通った。
視た夢に片端から解釈をつけていると、ついにショートカットして解釈のほうが、覚醒から起床までの半時間で降りてくる、なんて。きっと正月二日、初夢の奇跡。
夜の夢は終わらない。現実さえも、頭蓋に対するライターほどの大きさで夢に含まれるものなのだから。
蛇足
もちろん、学術のことば。世間一般、日常のことばでいえば。夜の夢とは内的現実。
初夢の奇跡ではなく、初夢という信仰・習慣に慣れ親しんだが故に私の心が起こした稀有な現象。
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