2011年1月16日

雪国より

昨日から北海道にいる。昨日まで札幌。今日からしばらく、もっと雪深いとある街に滞在。

ある時期まで私の父は、家族を連れて冬の雪国に旅行・滞在するのが好きだった。その意味が不惑を過ぎた今ごろ、やっと分かった気がする。

もちろん 意味 なんて来てみないと分からないもので、分からないということだけを最近になって気づいたから訪れたりするのだろう。

本を読んで わかった と思えることは大事だが、もっと深いところにあるなにか。


生きている人、生活している人。生活していた人の言葉を受け止めることには、本を読むことよりも深い責任が伴うのではないかな。そう思える。

日常から出る言葉を受け止め わかった と言ったあと。分かったつもりにしかなれないけれど、受け止めたと言ったあと。積み重ねのあとには、人はその街に行かないといけない。もしも、可能ならば。

相手が異性だと色恋沙汰に見られることもあるが、もっと手前の、人間関係の基本のように思う。私にはね。

ハタから見れば酔狂にしか見えないだろう。自分でも酔狂と韜晦することは多い。だが、わかる人もいるんじゃないかな。


体験をすることで分かるもの。今日の札幌からの行軍でも、それは言葉にして即座に話すことはできない。いや、もったいない。心で受け止めて、自分の体験として味わうことで、より深くなる。出力しているあいだに新たな体験を受け止めそこなう危険も大きい。だから、しばらく沈黙。


そういえば最近、人と語ったと伝えたら、人に話したのかと気色ばまれたらしい。すでに本人にはアクセスがとれず、噂に聞いた。

自分というフィルタを経てから、相手に応じた内容を語ることは、話すのと違う。それを感じ取ってくれたかに、私のことを 用心深い と評してくれた相手と思っているから。思い出すと他の感情を措いて、相手への心配がもっとも先立つ出来事。

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