2009年12月6日

無意識という言葉を使わなくなった

10日ほど前に 奇偶 を読んでから、無意識 という言葉をなるべく使わないことにした。

無意識というと、顕在意識、我々がふだん活動に使い、行動の理由にしている心と別の存在があって、それが別のことを考えているような気がするよね。それって、怖いよね。

無意識なんて、そんな大層に恐れるものでも、普段の自分と違うと恐れるものでもない。

なんとなく選んだ行動が正しいという確信をもつことは、誰にでもある。あとから自分の行動に得心がいくことなんてざらだ。

行動を決めている部分があって、それを他人に説明するために言語化する。人に問われないと言語化しないことなんて多々ある。そこから、無意識と呼ばれる領域まで、とくに区別することなくなだらかな変化で繋がっているのではないかな。

他人に説明するために、言語で会話するために使うのがペルソナだ。ふつう日本語では仮面と書いてペルソナとルビを振る。

行動の主体と、他人/社会を結ぶレンズのような存在、と近頃は捉えている。

レンズのこちら側、行動を決めている部分をなんというか。すぐに言語化・説明が可能な部分、ちと説明するのに苦労する部分、なかなか自覚できない部分。ひっくるめて 未言語の領域 とでも呼ぶしかないんじゃないかな。

言語、ロゴス、ねばならない で自分を縛ると窮屈だ。未言語の部分にしたがわないと、破綻はたやすい。

破綻しないように、極力、自分の未言語のこころを自由にして、社会とうまくやっていくために極力、ー嘘、方便と理解して使う言葉も含めてー 行動を他人に説明するための言語を操り、他人に説明できれば良いのかな、と考えている。

0 コメント:

コメントを投稿