2010年12月16日

九日前倒しのクリスマス

15日、娘とミュージカル を観てきた。来年は中学生。そしてきっと、気軽に会える最後のクリスマス (として過ごす日)


客席の子供たちに向かって話しかけ、盛り上げて始まる演出や台本のままの冒頭。うしろの音楽が生演奏じゃないし科白が多いから、客席に間を合わせられない。北島マヤでもあの状況では無理だろう。対象は子供なのに生硬な訳語だらけ。そんな雑念と批判から入った観劇だった。

舞台を広く使い、大道具はなく、登場人物が三人になったあたりで、生の舞台の観かたがだんだん思い出されてきた。せっかく TV カメラ越しではないのだから、空間全体に気持ちをおいて、話の筋や、逆に気持ちのスポットが当たっていない演出や演技のすべてを見ようとせず、気ままに感じていた。

河合隼雄に 舞台は心、原型は登場している役者 という説明があるが、まさにここからきているのかと体感できた。この芝居の筋では、主人公の父親は独り寂しく忘れ去られることがテーマだし、ヒロインの父親は燃やされて廃墟。全体の父たる町長に至っては言及されるだけで出てこないとか。娘と観にいって父親が感じとる内容としては皮肉なものがあるんですが。いや、娘の年頃からタイムリーか。


舞台全体を、右脳・左脳の両方の機能を意識して感じていたせいだろうか。ふたつのできごとがあった。

ひとつめ。舞台の音楽にリズムをとって手足を動かしたくなりこまる。いや、それは普通か。耐えたつもり。

ふたつめ。寝不足で帰宅してすぐに眠ってからのあと、夢。ストーリでなく写真が夢の中を動いていた。ひとつひとつの写真は風景だったり華だったりするのだが、現れて、動いて、自分の体のなかに沈み込んでいくことが繰り返される夢。ちかごろ得た価値観にしたがい、過去の出来事を整理しなおしているのかと感じた。願望かもしれない。

寝言に意味なく明瞭な単語を叫ぶように、片手・片足といった単位で意味はないのだがアップにしたら目的があるかに見える動きをしているのを感じていた。寝返りの原理の大げさなものだな、と分析しながら、動くに任せていた。

四肢の寝言が収まり、さて寝不足が続いているし外も暗い。二度寝しようかと思っていたが、水道の水をコップに注いで飲んで、起きた。

まぁ、なんだ。今年は動かなきゃと思いながら体が横になったまま動いてくれないと嘆く日が多かったから、逆に頭は二度寝するつもりでも体が勝手に起きてくれることもあるのだろう。初めてだし、驚いたが。

前々日くらいに、尿意を感じてから、トイレに立つんだと体に命令するまで、全部を意識した思考で明示的に決めて、かつ時間が掛かるのはどうなんだ。ふつう他のこと考えていたら、とくに意識せずにトイレに行かないか ? ふつう = 多数派に属することに価値はないが、前は意識していなかったし、そっちが楽だった。とくに意識するメリットはない。そのあと自分の育て方を間違っただろう、と。

反省とが心に染み、かつ役割を担うべき、右脳 (の担当と仮説されている機能 ) の動かしかたを観劇で思い出した結果かな、と。


どうやら、娘に前倒しでクリスマス・イヴのプレゼントをしたら、私自身へのプレゼントという形でそんな機能が蘇ったらしい。

0 コメント:

コメントを投稿