11月が終わる。
少年のころの夢、小説家になることは本当に諦めたのか、書くのですよね
と先週いわれた。
文筆業になりたかっただけで、書きたい題材などなかった。文章の修行は題材がなくともできるが、ストーリは構築できない。そのまま放ったらかしになっていた夢だし、もう書かない。そんな返事をしようとして、手が止まった。
今年のはじめ、一月。別のブログにこんなことを書いた。
自分で考え産み出した心への考察は、生活との接点、擦り合わせができている。取りたてて書くのを忘れるほどに。
書くのを忘れていたら、文章だけを取り上げたら妄想・カルトと見分けがつかない。ちと文章が不適切だったということだ。
このとき、書くとしたらそれは思想の言葉ではなく、小説の言葉
という一節も書いて、消した。それが頭に残っていた。
河合隼雄、鷲田清一両氏の対談、 臨床とことば
(2003年) の中に、内的現実という言葉があり、六月に読んだ時から思索のキーワードのひとつとなっている。
対談にある内的現実とは、たとえば、性的な犯罪を犯した者が反省の文章を 子供のころからアニメばかりみてきて
と始めたとして、それは彼の心が生きてきた現実の中のつじつまであり、反省であり、外に対しては言い訳に過ぎないということ。だが、犯罪者が改悛したという心は伝わる。
伝わりすぎて 有害図書、映像作品反対
と叫ぶ人は、彼のモノガタリに巻き込まれた、といわれる。
幽霊が見える人がいる。神様の声が聴こえるひとがいる。私はときどき、タロット札の作者がなにを感じて意匠したのか、わがことのように感じることがある。これらはすべて、内的現実。
事象はひとつだが、現実は解釈を含み動く。解釈はそれぞれにあり、その中ですり合わせが効くものが共同幻想 = 外的現実となる。だが、本当に個人的なことがらは、外的現実と別に、内的な現実の中で位置を得てモノガタリとなる。
どんな思想も、モノガタリも。主人公がどんな体験をして、そこに解釈を加えたのかという背景なしでは伝わらない。ちかごろはそう思うようになった。その中では、外的現実と内的現実を区別する必要はない。が、体験ごと伝えないと。その人の実体験にせよ、典型としたフィクションにせよ、そこから始めないと、単なる妄言となる。
思想そのものにすら意味のない、この人はこんな体験をして、こう解釈することに決めたというモノガタリを書けるか。自分や周囲のプライバシーを侵さず、純粋にモノガタリとしてフィクションを一から作ることで。いまは、そんなことを考えている。
その結果、今週はまた意味ありげな夢ばかり見る。
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