2010年11月23日

疲れるくらいに歩くと自分が見える

題名は、疲れるくらいに歩かないと自分が見えてこない という意味でもある。

14時半に日本橋の用事が終わり、蕎麦屋で酒を飲みながら昼食、川面をみつめて一服。銀座の街は、いま古くからのビルがいくつか取り壊され、店が移動しているようだ。懐かしさを惜しむ人もいるだろうと感慨にふける。昔のモボと思われる人の、すれ違う歩きかたに見惚れたりする。

酒を飲むと甘いものを酔醒ましに食べたくなる。一人で食べるのもどうかと友人を呼び出した。一時間と少し掛かるという。

地下鉄で移動の途中に神保町の駅を通り、古本街を歩くことを思い立つ。9冊を買い6千円消費した。

雨模様になる頃、飯田橋に到着。友人と合流して紀の善へ。行きつけかと訊かれたが、そんな顔を憶えられるような常連じゃない。高校生の四半世紀前に一度、昨年に一度。今年三回目の来訪になる、とっときの店。

甘味を終えると、友人は忙しいと練馬区に帰っていった。その中でつきあってくれたことに感謝。同行なら話の種に行こうかと考えていた、別方面の知り合いのイヴェントに出席するかどうか考えながらしばらく飯田橋にひとり休む。

パソコンや携帯からネットにアクセスせずとも、部屋にひとりいるだけでは自分を見つめる考えがうまく進まないのはなぜだろう。体を動かしたせいもあるだろう。昔に何度も歩いた古本街で、いまの自分がどんな本に惹かれ何を買ったかという選択が考慮の材料になったせいもあるだろう。

自分について文章を書くというのは、選択して削り落とすことなのだと思った。

今年のはじめに一度気づいたはず、そのあとの日常や人間関係の中で、見失い迷っていたこと。だが、それが基本。

春から失っていた習慣、紙のノートと筆記用具を持ち歩き、自分のためだけに考えを書き綴り、推し進める処からやりなおそう。

どこに書くか、と。なにをどこまで書くは、は表裏一体。

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