2010年10月11日

怖れられすぎている「共依存」 , 「依存」

共依存というと、DV (家庭内暴力) などの社会的な生活不適応に結びつけてよく嫌悪される。

また心理学の本にも ( 私が近頃読んでいるのは、相変わらずユング派の人の発言ばかりだが ) (原型を) 他人に投影するのは良くない、自分が飲み込まれるのは怖いこと、という記述が多い。

だが、本当に投影や、投影によって築かれる人間関係て良くないものなのかな、という話。三年前から恐れつづけ、深い人間関係を結ぶことをためらっていたが。ちょっとこの道は違うぞと違和感を覚えはじめた。

アンチとして気にかかったのが八月下旬。ミニブログ、つぶやきのたぐいで検索して、どれほど恐れられているのかをみたとき。今日になってやっと違和感が確かなものになった。たとえば、まったく相手に自分の理想を投影していない人間関係なんかあるの ?


共依存という言葉でよく恐れられるのが、相手のためだけに尽くす像をおしつけられ、そこにしたがうしか自分の生きる道がないと思いつめる関係。DV なんかまさにその代表。保護者の役割を押し付けられる。

だが押し付けるのが 大人の男性、理想の夫像 ならどうか。問題は相手が飲み込まれず、無理なときは無理だとはっきり言えるかどうか、自覚できるかどうか。

理想の会社員、昔の流行り言葉 期待される人間像 を自覚なく押し付けられ、飲み込まれると過労死や家庭不和につながる。だが理想の社会人像を求めない新入社員って、どうよ。

教職なんかどうだ。子供から 理想の大人 、規範をまったく期待されない教師は失格だ。うっかり求められているのが 理想の大人 = 人間・人格 であり、法律の権化無秩序に甘やかす理想の母親 といった神話的な原型ではないと把握し、注意を怠らないことは重要だが。


ローティーンの頃、河合隼雄氏の著作を読んで、物語に出てくるキャラクタを神話的原型に分類することに熱中した。小説そのものが味わえなくなった気がして、半年ほどでとりやめ、封印した。

最近、よくできた物語の中に組み込まれた、キャラクタ間の対話のあるフィクションを読んで神話的な 人の心の中のできごと として物語全体を振り返ることが多くなり、やっと気づいた。

ある部分は他人に投影し、また投影することで他人のなかに自分の中にありながら使うことのなかった資質に気づく。そして互いに気づくことで、また成長して影響を与えあう。それでなくては、人が生活をして他人と関わる意味がない。

参考文献

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