佐藤正午という作家のことは、三十代も初めのころに忘れていた。だからブックオフで廉価に売っていたエセイ豚を盗む
を手に取ったのもまったくの偶然。
そうだ。長崎は佐世保に住む競輪が好きな自分のことをよく書く作家だったとか、今の私と同じ年頃なのだと読み進むうちにこんな一文に出会う。
自分が書いたものばかり読んでいると、つい、それが日本語の規範であるかのような気がしてくる。ほかの人々が、ほかにどんな日本語の読み書きをしているか忘れがちになる。忘れないにしても、過去の先達の作品は若い頃に全部読んだと思っている。明治・大正・昭和のおもだった本は読みつくした、もう読むべき本はないと傲慢にも思い込んでいる。
自分がどれくらい傲慢な読者であるか、それは関川夏央著『本よみの虫干し』を読むことでわかる。この本は、誰もがタイトルだけ知っていて、内容は読んだつもりになっている文芸作品を、偏りなく実に幅広く選んで (以下略)
ちょっとだけ、傲慢さに押しつぶされて喪った情熱が戻ってきた。
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