今日は、飼っている猫が望むので闘猫に出したら、なぶり殺し寸前の目にあって帰ってきた夢をみた。
対戦相手の猫に教えられたダンボール箱の中から救いだし。まだ息があった。こんなに黒くて小さい猫だったかと思いながら心臓のあたりをマッサージしつつ、もう片手で獣医を探ししているシーンで目が覚めた。
妙な夢だ。
週末の話を書く。
金曜日の夜から、麻雀で天和の起きる確率をコンピュータに計算させはじめたら寝食と排泄を忘れた。
夕方には気持ちが悪くなった。昔は仕事でもよくあったことだし、昔なら注意して集中しないようにするようにしていたのだが、久しぶりで警戒を忘れていた。
気絶するように眠ったのは、夜も更けてから。二連続の気絶するような入眠だった。
起きたら7時。
先月末29日に、陽灼けの皮を剥くように全身の皮を自分で剥く夢をみた。たしか mixi の voice にはこう書いた。
ひと皮を剥ぐ (「もっけ」)とかひと肌脱ぐ(「戯言/ネコソギラジカル」) て感じの夢をみたが、人皮を脱ぎ捨ててもやっぱり人だろう
連想して蛇にちなんだ伝承をひょっこり調べた。
宇賀神という神様の言い伝えが一部にあるそうな。
古事記にある食べ物関係の神様が似た名前なので上書きされ、さらに蛇と水の神様ということで弁天と混同されて説話も石像もほとんど残っていないが。銭洗い弁天の名で有名な鎌倉の神社にみることができるという。
白露巳の日にお祭りがあるらしい。
白露というのは二十四季のひとつで秋。調べると今年は9月8日からの15日。
暦を計算することができるページも探しだし、そのあとの巳の日は10日日曜日と判明。
せっかくだから、見にいくならばその日だと決めていた。
とくに夢と神様を結びつけはしない。だが、夢をみるような古い心の動きは、昔からいろいろの人が体験してなにかを残しているものだとは思っている。
だが、神社のサイトにも鎌倉の観光案内にも、きちんと9月10日と書いてあるものはなく賭けになるという思いもあった。
それゆえスケジュールにメモはしていたが、あくまで備忘。確定させてもいなかったが、行こうという気になった。
どうしようかと迷っていたのを、朝起きて行く気になっていたなんて体験は、去年の3月以来だ。
小田急で経堂から藤沢に向かい、窓の外を見ながら考えた。
今年になってから、信仰に近い思い入れを込めて神社巡りを好む友人が幾人かできた。だが私は信仰深いとも思っていない。神社が好きというほどのものもない。この確たる目的も探し物もなく「行ってみよう」という気持ちはなんなのだろう。
結論は出ない。楽しいから行くとか、これを勉強したいから行くというわかりやすい動機がなくても行動して良いのだろう。動機を自分で納得できなくとも動いて良いのだろうし、めったにないことだから素直になることにしよう。
藤沢から JR に乗り換え、大船で乗り換えて鎌倉へ。
駅のホームから大きな石像がみえると、存在を忘れていたらまぁぎょっとする。
乱歩の怪人二十面相、ほかにもひとつ、ふたつ。大船観音の中をくりぬいて悪党がアジトにするという設定の小説があったな。
街を見下ろしている感じの大きな石像、悪党のアジトにして最後は壊れるという空想くらいしか使いみちもないだろう、当然という気がした。それくらいぎょっとする。
と、ここまで書いたところで一度中断。先週の木曜日からいきなり忙しくなった。(14日9時5分)
以下、11月6日未明に補足
鎌倉の駅を降りたところで驟雨。ある本には 水神のところに行くのに雨が降るのは、神様と会えるということと昔から言われる
とあったな。
もっとも私は、寺社仏閣に訪れたくなるようなときは、低気圧で心がそっちに向くのだろうと理解しているので、これはまぁ余談。コンビニで傘を買い求めて歩き出す。
民家の中をとおり、丘を上がりかけた途中に洞穴があり、その向こうが宇賀神・銭洗弁天。境内を歩き回るうちに、あと30分でお祭りと奉納神楽があるというアナウンスが流れた。
境内に舞台があり、その前に長椅子が何列か置いてある。だが、私はわきの茶店にこしを落ち着けた。
……なんだろうね。
奉納神楽そのものを観るより、わきで人のざわめく気配を肌で感じる方が好きだと気づく。友人や恋人も、そんなひねった嗜好の持ち主ばかり選ぶくせに、自分が企画して人を連れていくと、つい神楽そのものを観せたいと椅子に座ってしまう。それでは、ロクなことにならないよな。
しばらくして席を立ち、茶店で手に入れた観光地図を頼りに、南鎌倉の駅に向けてハイキング道を登った。俯瞰して人の流れをみるのも素晴らしい。
帰りの電車から、雲がジェットコースタの軌道のように、360°の円環を描き、出発点よりずれたところで下の大きな雲に合流しているのをみた。
ちかごろ雲の流れをみるのがおもしろい。電車の中での読書が、もったいなくて進まない。
それは私の視覚が。いや、視覚の処理をして得る情報が、鮮明に三次元になってきたせいだ。
はじめは何事が起きたのかと思った。正直疲れる。だが、疲れ以上に美しさを感じるので、やめられない。
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