ちょうど一年ほど前、こんな言葉を手帖に書いた。
みんなが好きだ、君が好きだと言うのは簡単。あの人が好きだと言うのは難しい。なぜだろう。
考えているうちに、名前も忘れた小学校の同窓生の声が甦った。「XXXでケッコウ、好かれちゃ困る」
—なんだっけ。「XXX」の内容。検索した。「き ら い」か。
あれは「理不尽だ」という感情。あれは「見苦しい」、あれは「おっかない」。「嫌い」という感情はどこ?
今日、どうにも日本語が通じずに和解できない友人が、恋人に遭いに車を疾らせていると読んで、反射的にこんな科白を送った。
怒っちゃいるけど、嫌っちゃいない。あいつに宜しく。
宜しくといっても、和解を頼んだわけでも、伝言をお願いしたいわけでもない。単に彼にとっても楽しい時間を過ごしてほしいと書きたかっただけだ。
私は嫌いという感情が理解できていないはずではなかったのかな、と寝床でしばし考える。結論が出た。嫌いな相手は私にも存在すると。
もしも机の上にコインを置くときに、表を上に置くか、裏を上に置くかで誰かに幸福が訪れたり、不幸が訪れたりするならば。そして、それをもしも識っているならば。
自分に影響の及ばない範囲で、彼に不幸が訪れるような選択があるならばえらんでしまうだろうと思える相手も、今は何人かいるようだ。これが 嫌い
なのだろう。
憎む
というのはもっと積極的に、相手に不幸が訪れるように動きたくなるような感情。一時的で一過性のもの。嫌い
は、積極的に関わりたくないが、不幸を望んでしまう判断。
もしも二組の、年齢・性別のほぼ対応する二組の団体を目の前に示されて。お前が選んだ方だけが生き延びると宣言されたとする。ひとりだけ残して、あとは全員面識がない。
そのひとりがいるために一方の団体を見捨てても良いと判断を下してしまうならば。どんな言い訳を探そうが、最終的に見殺したいと思ってしまうならば。それは 嫌い
なんだ。そう思った。
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