2012年8月15日

断片 (2012-08-15-2) 『仕事』

お膳立てしてもらった作業をこなす仕事もあるけど、僕らの仕事は先輩や同僚のお膳立てをしたり、カバーしたり、ヤヤコシイ・面倒臭いことを代理の手+頭となって行うことでお金をもらっているんだよ。

二十年前の私と同じ年頃で、同じようにこの業界に入ってきた若い子に言いたくて仕方がない。

煩いだろうから機会をうかがってる。
お膳立てをしてもらった仕事だけで当時は付加価値があって、ついウカウカと馬齢を重ねてきた私に言う資格はないような気がして気が引ける。

きっとあの頃の私に言いたいのだろうな
そして、あの頃の私はわからないだろうな

断片 (2012-08-15)

勝ったり、成功したりしても人に嫌われることはない、と思える人だけが勝つこと・成功することができるのだな。

嫌われるのではないかと思えば勝つこともできないし、好かれる相手もより少なくなる。やっとわかった

2012年7月27日

ふたつの派閥があるときに

ツイッタで昨晩に読んだ以下の発言が新鮮で、しばらく考えた。 漫画家だったか、原作者だったか。きちんと物事考えてる印象のかたがこんなこというのかと。

原発を麻薬に例えると結構全部説明できちゃいそうで怖い。ジャンキーって、いかにそれが必要か、どんな理屈でも立てるし。#原発

-- 竹熊健太郎(京都) (@kentaro666)  2012年7月26日21時14分

私の印象は逆で、「原発は悪いものだから今すぐに廃絶に向かうべき」と主張する意見は感情的で理窟がたっていない。反論するために引用された意見ばかりみてるせいかもしれないが。 ふたつの意見があって、どちらの立場から相手に反論することも同様にできるとき、私は発言者の姿勢をみて物事を判断してるのか。 朝起きて思い返したとき、そう結論した。 「お前の言うことには聞く耳もたん」と言う人の多い派閥より「お前の言うこともわかる、その上で現実的な方針を決めるために合意を取ろう」と言う人の多い派閥のほうに、より説得力を感じる。 私の場合は、たまたま反原発さんのほうに前者を、より多くみている。たまたまかも、だけどね。

2012年7月19日

Androidの「Firefox Beta」を使ってみた

自宅の有線電話環境が一時解約になってしまった。
生活を切り詰めるって初体験のことは、生活のことはネットに書かないという三年前の誓いがあるので必要以上に脱線する気はないが、あと一段落だけ続ける。

会社勤めを久々にはじめて、今どき珍しいブラウザやエディタを自己責任でインストールできる職場で、(仕事中に環境構築を遊ぶ気はなくなったのだが、)IE は仕事用に旧いヴァージョンを使わないといけなくて、やむをえず firefox を入れた。
昨18日のヴァージョンアップに伴ってアンドロイド用のそれの告知がみえて、今朝インストールした次第。

Firefox Beta for Android

マーケット(Google Play)の評判は悪い。それは予想していた。
アンドロイド端末・携帯はパソコンと違う。だが従来の携帯からはじめて移行したパソコンユーザは、まずパソコンで使い馴れたアプリをいれて、使い勝手の違いがパソコン・アンドロイドの差異かアプリの移植による影響か区別できないでレビューをアップするものだ。
私も昨年の初頭にはじめてアンドロイドを使ったときに、パソコンと類似の環境を作ろうとして同じ轍を踏んだ。

あのときも、まずパソコン風味なインタフェイスで、動きがカクカクした Dolphin Browser でしばらく頑張ったな。

当時のドルフィンでは「共有する」メニューに表示されるアプリが、ネイティブのブラウザに較べて少なすぎて、これは目に馴染むがAndroidには不便だと諦めたのだった。

だから ff の評価も、まずはそこから。宜しい。ネイティブのブラウザからブックマークを移植する機能こそないが、共有メニューは同じアプリがすべて表示されている。
アンドロイドで使うブラウザとして、まずは合格。

描画が綺麗だ。

ネイティブのブラウザで馴れた、タップでの拡大、縮小が効かなくてはじめ戸惑う。
ピンチ、だっけ。二本指でおし広げる操作で拡大するって機能はあるし、画面を動かすと html の表示領域より少しだけ剰りが四方にできるので、移動して見やすく拡大できる。充分代用になり、みやすい。

ネイティブのブラウザでは閲覧や操作が難しいふたつのサイトが私にはある。
ブロガーのダッシュボードと、グーグルのアナリスティクス(自サイトのアクセス分析)。
どちらもパソコン用の javascript が親切にすぎて、ネイティブブラウザの「読みたいと思われるところを優先して拡大・表示する機能」と相性が悪い。

どちらのサイトも、拡大や縮小を自分の手で操作する、このffだとストレス少なく使うことができた。悪くない。
グーグルリーダーも、携帯用の表示になって使いやすい。

どれもグーグルの運営であり、アンドロイドもまたグーグルの主導して開発する OS だから、おかしな話ではあるけどね。

細かい話だが、[その他] メニューに終了があるのも良い。現時点でネイティブブラウザを終了させるには、[ホームを表示] の操作でバックグラウンドに落として、ホームの [使っていないアプリを終了させる] 機能を使うと二段階必要だから。

ネイティブブラウザの、本文と思われるところを自動で拡大してくれる機能は通常のサイトを見るにはとても便利だ。
ふだん遣いのブラウザとしては、ネイティブブラウザを使い続けるだろう。置き換えて使うって展開にはならないと思われる。
だがそれで良い。どうせネイティブブラウザをアンインストールすることはできないのだから、代替にならなくても支障はない。

そして第二のブラウザとして、互いに補うという使い方をするには大変満足のいくものであったということが書きたくて、久々に記事を書いた次第だ。

これでしばらくはパソコン環境がネットに繋がらなくとも不自由しない、かもしれない。
(まったく不自由しないわけではない、が多少の不便がないとパソコンの通信環境を復旧させる意欲がなくなるから、これくらいで良い)

以上、au/Sharp の IS03、Android2.2 環境で、投稿アプリのBloggerより。

2012年6月23日

霞はやめた(戯詩)

人は
食わないと生きていけない

人は
寝ないと生きていけない

生きていくつもりになってしまうと
人は
人であるだけで忙しい

2012年6月15日

卑屈?

醜い言い訳と批難されるのが怖くて釈明ができない。交渉すら口ごもる。

黙りこんで事態が益々悪くなる

今年の一月、それまで親しくしていたひとからマイミクを切られたときのメモが、未だに携帯のデスクトップに残っている。

謝ろうとして言葉を重ねるほど意固地になった相手がいたから、俺はもう明確に批難されたこと以外は謝んねぇよ

これを卑屈というのかと、仮眠の前になにか読んでいて気づいた気がした。だが改善を試みれば、より悪くしないかという恐れが拭えない。

2012年6月6日

思いつき (パラレルなメッセージ)

<p> ダブルバインドなメッセージを受けて育ったひとには、相矛盾しないパラレルなメッセージがひとつのメッセージに並ぶことは抵抗がなく、送信も受信・返信も平気でしてしまうが、通常の幸せなひとには難しい、という仮説を思いついた。</p>
<p>ま、あくまで思いつきの仮説だ。いくら相矛盾しない、独立した別々の内容でも。同じひとかたまりのメッセージの中に入れるのはよそうと自戒するための</p>

2012年4月29日

呟き

僕にとっての真実を人に語っても、別の当事者には偽りかもしれない
別の当事者が語る真実は、僕には噴飯ものかもしれない。

だが私は、そういうこともあると知っている
だが善良なる子供は、そういうことがあり得るという認識がない
そんな認識を私が抱きうると想像だにしない

だから善良で、トンマで、愛すべき子供は、
二人きりで会話するには良いが、
第三者として介在させたら果てしなく厄介者だ。

世界の認識に if 文のない子供よ
無垢のまま幸せに死ぬが良い
そして私とは関わってくれるな

白髪混じりの、丸々と幸せに肥えた無垢な子供!

2012年4月8日

SEO って「愛」なんだろうな

承前

ある日、同席したひとに お仕事柄、SEO についてアドバイス願えませんか と軽く言われたことがあった。

その方のご要望は、同じ製品について何人もが協賛記事をブログに挙げているなかで、自分の記事を導線として購買してくれる新規のお客さんを増やしたいって内容で 私ではお役に立てません と答えるしかなかったのだが。

それからずっと頭に引っかかっていた質問だ。

独自性

ニッチな記事を書く。ほかのひとが書きそうな記事は書かない。これは不特定多数の読者を意識しているならば、誰もが自覚していること・自覚しているべきことだと思う。

むろん、自分の友人に対して近況を書き綴るひとは意識する必要がない。下手に目立つと好きなことがかけなくなるから、意識して避けたほうが良い。

検索しやすさ

コンピュータの設定を書くならば、キーワードを意識して入れる。エラーメッセージはありのまにコピーペーストする。

自分が検索するとき、なにを検索窓に入れるか考えたら自明だろう。

検索される語の独自性 (笑)

このブログから 文体診断ロゴーン を辿っていかれる人は存外に多い。なぜか。実は私が自分の文章についてやってみた記事を書いたとき、うっかりと 文体分析されてみた て題名にしたからだ。本文で使っている言葉も 文体分析 。だもので、類似の曖昧な記憶検索をしたひとはほとんど私の記事を辿っていった時期があったらしい。

いっときよりは大分下ったが、それでも 文体分析 で検索するとそこそこ上位に、上の記事がひっかかるだろう。

私のところを経て、最終的にロゴーン に着いた人が多かったから、最後には 文体分析 できちんと ロゴーン がより、上位にくるようになったのではないかな。

リンクはまめに貼る

しょうじき、近頃はあまり貼らない。

私は個人的なこともごちゃ混ぜに書いていて、あまり目立ちすぎるのも鬱陶しいから、貼るのを咲けるようにしている。上の段落では、話題が話題だからわざとロゴーン関係についてよくリンクを貼った例を作ってみた。

むろん、SEO を考えてリンクを貼りまくっていたわけではない。親切心があれば当然だろ ? それは (極端にいえば) 読者への愛だ。

SEO を考えるというと、自分のサイト内であちこちリンク飛ばせって書いてあるものが多い。自分のサイトにリンク貼ってもらえって書いてあることも多い。だが、逆なんだよな。きっと。

検索サイトからみれば、このサイトから、検索結果に戻らないでリンクを辿る旅にでかけた というのは重要な情報。つまり検索サイトからみれば、そのサイトには重要な情報が詰まっている てことになる。

どっちが、より長期的に正しい戦略か私はしらないよ。数理モデルを駆使してきちんとシミュレーション、検証しないと誰にも結論は出せないと思う。

でもゲーム理論の定説では 適切にしっぺ返しもするお人好しが、最終的に勝つ ものだし、適用可能なケースじゃないかと直観的に思うんだ。

そもそも私は SEO 考えていない、商売にする気のない素人。素人だから率直に書いているけれど。商売にしているプロが、自分の指南サイトよりも検索に強くなるようなコツを教えると思う ?

私は、疑わしいと思う。

自分のコンテンツへの愛

今朝、いきなりこんな記事を書き始めた理由、気づき。

ブログの統計をみていたら、ある記事へのリンクが目に止まった。自分でも忘れていた、二、三年前の記事だ。

同じ人間だから、同じようなことにまだ興味があるわけで。それは今読んでいる本、もしかしたら感想を書こうかと思っていた本を読むきっかけになった思いだった。

検索からこの記事を読むひとがいまでもいるんだな と思えば では、今の考え、この本を読んで進展した考えもきっと読みたいだろう とお節介にも考える。

考えたら、きっと時間があれば、いま読んでいる本への感想もこちらにあげるし、すでに検索ヒット率がある前の記事も追記して、新しい記事へのリンクを貼るだろう。

それは自分の書いた過去の文章への愛であり、読者へのお節介という身勝手な愛なのではないかな、と思った次第。

2012年4月6日

断片

「他人を嫌ってはいけない」と思うから、
「私は正しくありたい」
「では、あいつに悪いところがあるから近づきたくないのだ」
「あいつは○○というところが目立つ」
「○○は悪いことだ」
となる。

そのひとと友達になれそうもない、相性が悪いだけだと思えばそれで良いのではないかな

すでに友人なら、それは「嫌い」なのではなく「けんかをしている」のだろう。

2012年3月27日

刺さった言葉 (佐藤正午)

佐藤正午という作家のことは、三十代も初めのころに忘れていた。だからブックオフで廉価に売っていたエセイ豚を盗むを手に取ったのもまったくの偶然。

そうだ。長崎は佐世保に住む競輪が好きな自分のことをよく書く作家だったとか、今の私と同じ年頃なのだと読み進むうちにこんな一文に出会う。

自分が書いたものばかり読んでいると、つい、それが日本語の規範であるかのような気がしてくる。ほかの人々が、ほかにどんな日本語の読み書きをしているか忘れがちになる。忘れないにしても、過去の先達の作品は若い頃に全部読んだと思っている。明治・大正・昭和のおもだった本は読みつくした、もう読むべき本はないと傲慢にも思い込んでいる。

自分がどれくらい傲慢な読者であるか、それは関川夏央著『本よみの虫干し』を読むことでわかる。この本は、誰もがタイトルだけ知っていて、内容は読んだつもりになっている文芸作品を、偏りなく実に幅広く選んで (以下略)

ちょっとだけ、傲慢さに押しつぶされて喪った情熱が戻ってきた。

2012年3月9日

余生の自覚

ほんの六時間ばかり前、実生活の調子を崩していたはなし、その五日目に妙な夢をみてからことさら酷い日が二日続いたって話を書いた。

(逆じゃない。夢が原因で気病みになったわけではない。なんとも変調のさなか、ピーク寸前の症状として夢をみたが、夢にみたからといって簡単に消化できるわけもなく。対処すべき問題はやはり面倒だったという話と思ってる)

日記の記事にあげてから一夜明け、この一週の不調を振り返り気づいた。
余生の自覚が足りなかったな、と

一月の新月の夜、京都であれこれ考えて出した結論は、余生の自覚だ。

そのタイミングでやってきた仕事に応募し、いま勤務っぽいことをしてるのも。功名心を捨て、余生の自覚でお手伝いさせてもらおうと思えたからのはず。

最近、少し浮かれて、間違った気合い入れたのが敗因やな。
仕事の成果の可否以前に、自分の心に勤怠経由でストップかけられちまったよ
「それでは、二、三十代と同じだろ」と

automake

FreeBSD を 9.0 に上げてから、私の環境・グラフィックカードでは mplayer や ffplay で動画を再生した時に画面が時々真っ暗になる。設定をいろいろ変えたり、下位ライブラリをリビルドしたりとあれこれ楽しんでいるが1ヶ月ずっと解消できていない。

Perl のモジュールは最近 cpanp から o; i *; (o コマンドで更新のあったモジュールをリストアップして、i *; で直前のリストアップ全てを更新 ) として、p5-* を含めて軒並み bsdpan- にしているのだが、そこに関連して しばらくメールが読めなかった。

mutt-devel に対して aspell に依存するって間違った情報が登録されているのを解消したく、一度削除して再コンパイル・インストールしようとしたのが原因。

===>   mutt-devel-1.5.21_3 depends on shared library: sasl2.2 - found
===>   mutt-devel-1.5.21_3 depends on shared library: idn - found
===>   mutt-devel-1.5.21_3 depends on shared library: iconv.3 - found
===>   mutt-devel-1.5.21_3 depends on shared library: intl - found
===>   mutt-devel-1.5.21_3 depends on shared library: db-4.7.0 - found
===>  Configuring for mutt-devel-1.5.21_3
Can't locate object method "tid" via package "threads" at /usr/local/share/automake-1.11/A
utomake/ChannelDefs.pm line 241.
*** Error code 2
Stop in /usr/ports/mail/mutt-devel. *** Error code 1< br /> Stop in /usr/ports/mail/mutt-devel.

気づいてみれば、なんのことはない。site_perl 以下の threads.pm が Perl 本体の入れた threads.pm を上書き (overload ) していたのが原因。

一瞬で気づかなかった理由は、目の前にエラーメッセージをみながら、automake が Perl に依存しているわけがないと歴史的な前後関係に目を曇らせていたせい。

2012年3月3日

3月は誕生月

金曜日。わがままで傲慢といわれる自分に戻っていた。五年ぶりくらい。

他人を大切にしようとしていた五年は、他人をも傷つけてばかりだったから。ちょっとこの状態を維持したまま再評価してみよう。


怒りをすべて燃やしきったということかな。

三月のうち一日くらいは遊びたい、ふだんは大阪にいてる焼き物 でもみに行けたらな、と思う。

耐乏のために、お台場から新宿まで二月の雨の日に歩いていてはじめてガレリアというビルとともにみつけた。なぜ私は独りで歩いているときに、こうも知りもしないデートスポットに行き当たるのだろうと想った建物だ。そこのサントリー美術館に壷がきている。関西に住まっていた頃はよくみにいっていた壷なので、ポスターが懐かしかった。

3月のうちにいけるほどの余裕はないから、また関西の折にと想っていたが。なんとかなりそうだ。

2012年2月4日

書きかけの話はさておき、雑記

ちかごろ、読書メータ に読書記録をつけ、ついでに呟きと称するユーザの交流の場所にも、すきなことを書いている。

今日は読書メータ用の twitter account に反映された これ読んだよ 記録が、newspaper の単語検索サービスから妙なひとに拡散されてしまい、暇でもないのに調べてしまった。

妙な人と書いた twitter user のブログがこれ。どうやらカルト教団側から、日常一般の社会に迫害されていると訴えることを使命にしておられるようだ。スピリチュアルと称する文化についての書籍に言及して、単語で拾われるなどはなんとも業腹なはなし。

反カルト教とでもいうべき偏狭な(私の認識では、偏狭とカルトは同義語だ) 集団もあるし、実際に起きた事件をもとに、たがいに不備をつつき批難を応酬すればばきりはない。

洗脳ほどきを頼んだら、施術者の愛人にされたなどという記事が今日の時点のブログの最新記事だったが、洗脳ほどきの患者と施術者が恋に落ちるなんてよくあること。(信頼がないと、洗脳ほどきなんてできない)。恋人の親にきちんと話を通さないのは脇が甘いが、誰の視点が正しくて誰が批難に値するかなんて、誰に判断のつこうはずもない。

まんま君の所属する「ほぼ日」のゲストにさせてみたい、稀有な人材ではあるが…… マイナー擁護派として「間違ってもこうなっちゃいけない」て他山の石でもある

2012年1月24日

毎年一月の新月の夜に (未了)

関西から先ほど帰ってきた。静岡で線路になにやら転がっていて、片付けに手間どってダイヤが乱れたとかで銭湯にも間に合わない。倒木ならば倒木と言いそうなもので、なにが転がっていたのか言われなければ、死体か、屍体に見立てた人形じゃないかと思ってしまう。

一昨日は京都四条から大原まで六時間歩いた。星が綺麗だった。考えてみればこの三年、毎年新月になると山道か船上で星空を見上げている。(以下書き足す予定)

2012年1月19日

身辺雑記 1月19日

年末に注文していた、タロットの本が届いた。

執着としてではなく、暴力の一種として、ストークとか偽被ストーク症候群だとかをとらえられないか。 ……文章に表現すると紛らわしいな。本人の愛情が相手に迷惑だというはなしではなく。

DV の被害者だった結果「愛情は相手に暴力を与えることでしか示せない」タイプのひとが、暴力の一つとして、ストークなり、ストークされたと言い立て社会的制裁を求めるなりといった心が働いていないかと思って英語 Web 文献をうろちょろしているときにみつけたのだよな。

愛情のはなし、霊障と民間療法と新興宗教崩れのはなし、売春とうらないの関係、いろいろ資料ためて、考えてあって、書きたいことはあるけれど。

想定していた読者がいなくなって、書く気合が薄れているのが正直なところ。

読者がいる前から書いていたのにね。


火曜日に精神が元気になったが、枷が外れても弱った体力は戻ってこない。体がついてこないってことを実感している。

2012年1月7日

随想の断片  (自由と責任)

実在か心の中のイメージかを問わず
「自由には責任が伴う」と言い立てる相手がいる間は自由ではない。
暗黙に『だから私に支配されなさい』と脅かされ、いつ支配されるかわからないと感じているのだから。

そんな相手が一人もいないことを入念に、丹念に確認したあとに心にこみ上げる歓び、それが責任だ。
罪でも枷でもなく。

……て断片があって、前後に文章を補い、偉そうな口調も排してわかりやすく推敲したいのだが、

いままさに開放感/責任/自由を気づいたところで、過去になくリラックスして眠い。

考えてみたら、ここ三日、四時間ずつしか寝てないや。

自由と責任が一体で歓びと聞くと意外だが、獣が育児のために動くのを歓びと感じるのと同じ程度のセットといまは思える。
だから人が自由を求めるのも本能なのだろうね。

おやすみなさい。

2011年12月30日

本物、贋物

人の評価はむつかしい。

わたし如きに見透かされるようでは贋物、というのは判る。

わたし自身のことはわからない。
 本物と思ったことも、
 言明したおぼえもない。
原理的に、わからないのは自明だから、
ふだんは一々断らないけどね。

わたしと同じ方向を目指す人は、多分わかってる。
その格はわからない。
古来より、同格と思えるような相手は、自分より二枚も三枚も上手(うわて)と言われるし、
きっとそれは正しいから。

本物でも贋物でも、
瞭らかに自分より格上の相手もいて、
その真贋はわからない。

2011年12月27日

夜の夢こそまこと

「先週月曜19日から、今日火曜27日まで色々のことが起きたな」と
思いながら図書館から戻り、寒くて毛布にくるまると眠っていた。

夢をみた。
ハードボイルド小説のような、依頼者が降りても自衛や感情で動く探偵として、バーのカウンタにいた。
神聖な樹を守るとか倒すとか、そんな事柄でいま事件の渦中であり敵がいて、その樹の影響で敵のここまでの経緯を追体験していた。
敵の立場からみたときには自分のこれまでの行動も筋が通らないとしり、敵もまた自覚はしつつやむにやまれぬ経緯で筋の通らないことをしてきたと感情も思考も追体験して。
樹の影響によるSFじみた体験から、精神をバーの身体に戻そうとする夢の中の「私」、夢の思考から目覚めようとしている現実のわたし。どちらも同じくただひとつの思い「敵も自分も互いに矛盾しているのだから飲み込んで講和できるはずだ」という意志だけを持ちかえるために懸命に考えて、追体験の思い出の個々の細部は忘れながらも戻って。

毛布にくるまっている自分のからだを見つけた時には、それでもやはりロジックでは許すことはできないことを発見していた。

「清濁併せ飲む」か。
夢の中の、さらに夢のようなできごとの内では正しいことが、日常の自分の筋・ロジックでは選べない行為であることを実感したとき。
江戸川乱歩の愛した「夜の夢こそまこと」という言葉が身に沁みた。

夜も遅いが、今日も乱歩を愛する人の集うバーにでも行くかね、リツイートもしたしな。