そうか、俗説に男は女性にアタックして拒否されるほど燃える動物
というけれど、あれは……
このメスは身持ちが固いから、もしもコトがあれば自分の子供だと確信できるだろう
という遺伝子保存戦略なのか。
満月を控えたあさ、小説を読んでいてふと気づいた
-ライ麦畑で押し出して-
そうか、俗説に男は女性にアタックして拒否されるほど燃える動物
というけれど、あれは……
このメスは身持ちが固いから、もしもコトがあれば自分の子供だと確信できるだろう
という遺伝子保存戦略なのか。
満月を控えたあさ、小説を読んでいてふと気づいた
こんなことを考えた。
考えてみれば 中川の家は代々、莫迦に容赦がない。とはいえ世間では温和で通っているのだよな。
中川家共通認識の莫迦とはなにか
小一時間も過ぎるころに考えがまとまった。
- 自分を棚に上げて他者を批難するもの
- プライドや感情で合理的な判断を拒否するもの
この両者を莫迦とみなして見捨てて好きにさせてきたように思う。
父も、その父母も、その姉妹も、わたしも、元妻も。
ズボンのポケットに入れたまま、夜勤から帰って服のまま眠って起きて、ぼけっと寝ぼけたまま着替えていたらズボン踏んだし、そのときにやってしまったらしい
あしたあたり、また加賀屋で修繕頼むか。急がないとふたつの部品が泣き別れて修繕を頼みにくくなる。
……と、そう考えたらたばこの購入は離島に田舎暮らししても届けてもらえるが、修繕を気軽に頼める距離に店のあるところにしか住めないねぇ。
ある、年若い女性が「ひとの顔は識別できないが、体にまといつく色は見える。あなたの色は、このままだとあと三年で死ぬ色だね」とかつて私に宣言した。
べつに死ぬのを怖いと思っていない時期だったので「そうか」と素直に受け取り、むしろ率直に述べてくれるほどわたしを恐れていないのかと好意すら覚えたのだが、その会話からさして経たないうちに、わたしは彼女と喧嘩し、仲がこじれて二度と彼女の肉声を聴かなくなってからだけで3年とひと月になる。
言われたのが冬だったのは憶えているので、宣言からは三年半。もう予言は外れたと断じても良い頃だろう。
当時「視えるのはつらい」と言っていたから、わたしがこうしてまだ生きていることを伝えたら彼女は「外れることもある」という意味で嬉しくならないかとも思うが。きっと彼女は自分の発言を憶えていなかったり、あるいは「君の望みに反して、君に憎まれても私は生きている」という悪意のことばと受け取るのではないかと思えてわざわざ連絡することも躊躇われる。
(喧嘩のとき、「目の前から消えろ、この世から消えろ」と感情のままに共通に親しんでいたSNSやGoogle Plus の前身に書き込んでいたし、おそらく本音だったろうからねぇ)
誰か、心当たりあるかたで、かつ彼女がいまでも視えることを言い立て苦しんでいるようならば伝えてあげてください。
それはさておき、もしも人を呪い殺すことが可能だと信じ込み、確信して疑わず、理にかなったことだからと良心に咎めることもない人間がもし存在するならば。
その人は捨て台詞というものを吐かないだろうと、派生してだが脈絡なく思いついた。
相手が苦しく死ぬことはわかっているならば、なにも脅しをかける必要はない。斟酌・手加減をするつもりがどの道ないならば交渉をする必要もない。
だから言わない。ただ、殺す。
すると、見た目は大変温和なひとに見えることだろう。どんなに意見が合わない相手でも、笑ってただ立ち去るのみ。
具体的な知り合いならば、誰それくん…… と今は連絡の途絶えた当時の別の知り合いの顔を思いだし、大変怖い考えになってしまった。
ここまで読んで、理解はすれども具体的な知り合いの顔が思い浮かばないひとは思い返して欲しい。歴代ローマ法皇の満面の笑みを。
あれは「敵するものは自分が手をくださなくとも(神の恩寵によって)自滅する」と確信をしているが故に浮かぶ笑みだと想像したら、怖くならないだろうか。
用事ができて、一泊二日で関西にきている。
父の遺骨に供えた発泡酒新作のお下がりを飲んだら疲れが出て夜中まで眠り、奥津城の整理をしていたらたちまち夜が明けた。
食卓や机の上にものを置くような母親のやりかたを踏襲していたら片付くわけがないし、そんな習慣をもつ家族がいくら片付けろといっても子供が片付け上手になるわけがない
(机の上と抽斗の使い方がずれているのだよ)
四十路も半ばを超えてやっと、そんなことに気づいたりする。
窓の外では、鳩がベランダの縄張り争いをしている。
元妻の播州コンプレックスにつきあって、ずるずると長年きそびれた結果、すっかりと自分たちの土地だと思っているな。
ここは亡父の土地だというのに。
二ヶ月前にも一度行い、手順をおぼえたベランダの清掃にとりかかろう。
二十代できちんとこなすことのできなかった客商売
を、し残したこととして勤めてみてやっと片付け・掃除といったメンテナンが身に付きかけている。
ちょうど一週間前、4月25日。半年ほどぶりに近所の TSUTAYA を訪れた。同じビルの、夜間も営業しているスーパーが臨時の休業をしていたのがきっかけだ。
しばらく前から、古い映画「ローマの休日」を観たかったのだが、勝手がわからずに小一時間店内をうろついた。住宅街の、私の街の店舗でもレンタルコミックが始まっていることをはじめて知った。
それはさておき、児童向けDVDのコーナに「ガンバの冒険」をみつけた。
娘が小学校に入るか、入らないかのころ。自分が同じ年ごろに観たからと探した番組ふたつのうちのひとつで、つまり十年ほど前にはレンタルで見つからなかった憶えがある。( 余談だが、もうひとつは「小さなバイキング・ビッケ」だ )
たかだか DVD 四巻、13話の短い放映だったかと信じられぬ思いでジャケットのあらすじを眺めているとき、ふと気づいた。
「そうか、わたしはイカサマになりたかったのだ」
放映は磁気テープのヴィデオ録画もまだ一般的でなかった頃だ。二、三年して斎藤惇夫氏の原作を何度も読み返していたのと記憶は入り混じっているだろう。
にしても、イカサマは恰好よかった。
おそらく、さらなる原体験として「ガッチャマン」の最終話で遺志だけが通じ敵と刺し違える、青い装束の no.2 に感銘した流れもあるのだろう。
ま、それはともかく。
小学校五年生で私はタロット札と出会った。
中学二年生でインド瞑想の本を実践しようとして、その一環としてパメラ・コールマンの画を頭に描き、鉛筆でトレースした。
大学に入り下宿して麻雀を憶えたとき、博奕打ちであるならばサイコロは常に二つ以上ポケットに持ち歩かないといけないと感じていた。
離婚してリュックひとつの所持品で動いていたときに気まぐれで入れていたタロット札と再度出会い、タロットと麻雀が一説には同根であると知ったあと、もう五年に渡ってわたしはタロット札を最低ひとつ鞄に忍ばせている。
イカサマになりたかったのか。
たしかイカサマも、自らの出した卦に準じ、三匹の犠牲の最後を買って出る。凶を吉に変えるために。
「一、二の半。大凶だ」
4月22日、電話機が壊れた。
USBコードからの充電ができなくなって一度代替機を借りて連絡を取り、自宅のスタンドで充電したところで携帯内のメモを SD カードにバックアップして、そのまま修理に出した。
失敗であった。ある携帯からSDカードに書き込んだファイルは、別の携帯でも、パソコンにつないでも読み込めないと判明。
いろいろの記録や雑感のメモがなくなり、けっこう落ち込んでいた。
気分を新たに、今日からまた雑感を書き記していこうと思う。
……というメモを今朝一番にパソコンでローカルに書いた。公開できるものはこのように公開で、非公開を必要とするものはGoogle Drive などに非公開で、まめにネットワーク上にバックアップしておきたいものだ。
新しいPC を買った。最初のPC を仕入れたのが23歳の二十数年前で、それから七代目になるが。はじめて型落ちでない新品を買った。道具として必要だから OS もWindows 、うっかり Windows8 。
届いてほぼ一週間経った昨晩、ネットワークの通った友人の家で WindowsUpdate をかけ、もろもろ必要と思えるソフトを軽くインストールした
いまの悩みは、Windows8 で遊びのソフト(LINE , Skype ) を入れるにはマイクロソフトのアカウントが必要なこと。
ドメインは別の友人が取り戻してくれたが、まだ設定をしていない yaemon@kikansha.jp で登録した旧いアカウントが凍結されている。メールが届かないので復旧できないのを放置して、新しくアカウントを作るか、待つかだ。
昨11月あたりから、小説家になろう
に掲載されたアマチュアの投稿を読むのが新たな趣味になっている。はじめのうちは無名の読者としてログインせずに訪れていて、ある日ログインアカウントを作ろうとして気づいたら、大学生の二十数年前に小説家になるつもりで作ったペンネームがすでにメールアドレスに紐付いていた(いつ登録していたのだろう)
しらない人が書いてる、作品以前のエッセイや詩を読むのが好きだ。が、そういう作風のかたはお気に入りにしても非公開に(なるべく、きづいたら、うっかりしていてお気に入り返しされたらあきらめてるけど)している。ひとに話すのは、すでに作品といえる、サイト内での人気も出ているものばかり。すると和風ファンタジーの{異世界・ゲーム}ものが多くなる。
もうすぐ書籍になるという告知をみたときに娘に教えたら面白がってくれたのがこの世界がゲームだと俺だけが知っている
この著者の作品も完結した先行の 天啓的異世界転生譚
を先日また読み返した。どちらも伏線の多い知的遊戯として素敵な作品だ。
週末に頭から読み返したし、また記憶の薄れた頃に読み返したくなりそうなのが 盾の勇者の成り上がり
。著者はプロトタイプだと謙遜しておられるが(じっさい、完結するまで構成について評価することはできないし、完結してから構成を見直したいのならば著者にとってはプロトタイプなのだろうが)はじめの事件からの顛末23ページ分だけで、すでに文学だと云いたい。
今回読み返していて、うっかり思ったもの。わかる、そういうときは本当に味覚がなくなるんだよな
わたしは今まで類似のショックで、食欲をなくしたことも、視覚がおかしくなったこともあるが、味覚はおかしくなったことはない、はずだ。 初読のとき、あまりに主人公に思い入れしすぎて、味覚がなくなったことがあるような気になってしまったらしい。
記憶すら改竄する描写を文学と呼ばずして、なにが文学だろう。
余談だが、主人公が立ち直る経緯は麻雀漫画屈指の(おっと、そのさきはネタバレにつき省略)リスキーエッジ
を思い出させる
昨日まで四年間は友人と認識していた男のはなしを書く。 かつて存在した wassr というコミュニティで、そこそこ仲の良かった相手だ。
わたしは六年以上、彼は少なくとも二年フェイスブックに参加してる。
一昨年の地震の時には、わだかまりを捨てて彼の無事を祈り wassr をみてた。フェイスブックでも福島某市の復興のために精力的に動いている記事が共通の友人からシェアされているのをみていた。
ちょうど先週、元 wassr な共通の友人がさらに増えたせいか「あなたのお知り合いではありませんか」画面の、わたしにとって筆頭に表示されるのをみて、『うっかりすると、ミスタッチで友人申請してしまいそうだ。彼から謝ってくるならともかく、こちらから友人申請とかしてしまったら恥ずかしいな、防止策としてブロックするか。だがスマフォ画面にブロックが表示されないよ』と考えていた。パソコンからフェイスブックつないでブロックメニュー探そう、今度ネットカフェ行くときの ToDo と思っていた。
そのタイミングで、フェイスブックから通知メールが届いた。彼からの友人申請だ。
『もしわだかまりが半ば解けて、わたし視点の話も多少なりと聴くつもりがあってのことなら、ふつうならまず謝罪から送ってくるよな。だが上から目線で「おれはもう気にしてないよ」て意味なら、wassr なき今いきなりフェイスブックの申請送ってきてもおかしくはない』と三日悩んだ。悩んだ結論は、わたしが自身やりそうだと心配してた『お知り合いではありませんか』画面、もしくは機種変更などでうっかりアドレス帳をアプリに喰わせての誤操作による申請。
念のため「友人申請が届いたけど誤操作だよね? 貴君にとって、まだわたしは不審人物なのだろ?」とメッセージを送った。
四、五時間後。夕刻に返事が届いた。「俺には覚えがないから貴様の勘違いだろう・最近は悪さ控えてるかい?」 想像の上限の、さらに上をいく傲慢さだ。
「自覚がないから誤操作というのだよ。証拠送ろうかと一瞬思ったが面倒。とりあえず意図してなかったとわかれば、わたしは気が済んだよ」と返したら、逆上した文が返ってきた。
「おれは中川がフェイスブックにいることも知らなかったし、探したこともない。それで誤操作と呼びたければ呼ぶが良いさ」
は?
わたしの考えた誤操作の意味を書いたら、「晒したければ晒すが良い」とさらにわけのわからない返事。
「晒す」という言葉についていえば、あいつや当時の共通の友人が、わたしの情報開示したことを一度も責めたことはないし、ただ単に『あいつらには普通の友人つきあいなのだろう』と受け止め相応に、愚痴吐くときに気楽に書いているだけなのだが。なぜ許可がいるの? ……てのはまったくの余談。とりあえず、そこに至るまでの向こうの喧嘩腰がわからない。
なんだかよくわからないと、いま懇意にしている集団で愚痴っていたら、わたしと全く同様の誤操作の可能性を示唆したひとがいた。
「いや、それが誤操作でしょ」と返事を書いてて腑に落ちた。あいつ、わたしのフェイスブックページを覗いていると批難されてるように受け取ったのか。 それしか誤操作の可能性思いつかないてことは、たしかにわたしのページみてたのだろうな。
ホントの処はわからない。
彼がわたしのページをまめにチェックしていて、かつそれを隠そうとしていたと解釈することでわたしが腑に落ちたというだけ。
「しらないよ、まちこちゃんの筆箱なんて壊してないもん」「誰もまちこちゃんの筆箱が壊れたとか言ってないんだけどね」メソッドだ。
共通の知り合いが五人も十人もつながった状態で、地震のおりにシェアされた投稿の頻度でフェイスブックにいて。互いに見りゃわかるアイコン使っていながら「おまえのアカウントの存在を知らなかった」てのも不自然すぎるものな。
知性ある友人に一方的に断罪されたと思っていたから苦しんでいたが、底が割れるような嘘を吐くほど底の抜けたバカかと思ったら気が晴れたよ。
あるいはもしかしたら、底が割れるような嘘を吐くほどわたしに罪悪感もってると感じたのかもしれないけどね。
なんにしても気が済んだ。わたしはいまも今後も害意で個人情報までもを晒すつもりはないが、黙するには笑い話として秀逸すぎる。
与太郎では仕方ない。許すさ。現時点では二度と近寄ってほしくないけどな :-p
近所にいたら可愛がるが、わざわざ出かけて行ってまで愛でることもないのが落語にみる与太郎とのつきあいだろ?
今まであまり読んだことのない類いの本を、昨日図書館で物色してきた。
図書館の十進分類 336 (経営管理) から一冊、隣の 342 (財政史)から二冊。そして 673 (商業経営・商店) から二冊だ。
読み始めた一冊目は失敗に学ぶクレーム対処術
。藤田田のもとで日本マクドナルドにおいてした仕事の話がメインで、著者はこれを含め外食産業に21年務めてきたという (「はじめに」p.7 )。
上掲書 p.93より売上げにはふたつの売上げがあります。レジスターの記録と現金売上げです。レジスターの売上げ記録から打ち間違いと現金差を引くと、現金売上げとなります。ふつう、百貨店やスーパーに入るテナントの場合、レジスターの売上げと現金売上げは同じになるように調整します。しかし、マクドナルドの場合、間違いや盗難による現金差を容認しているので、普通は現金売上げを売上げとして申告するようにしていました。
(略)
私はまだ統括になり立てで、売上げは現金売上げしかないと錯覚していました。」
なんと。銀行員を両親にもっていたわたしには信じられないはなしだ。
銀行員は一円で支店のバックエンド全員が残業を続けるのが常識。
わたしの感覚は次のとおりだ。
帳簿と現金は合わせようとしなきゃ合わないものなのだよ。
足りなかったら責任者が埋めろというのは一見厳しいようだが、足りなければ埋めれば良いのだろうという道徳心の低下を招く。余っているときはポッケに入れてもいいよねとなる。行く先は売上げのごまかしだ。だから最近のスーパーに導入されているような現金集計機がついて記録のとおりにしか入出金できないレジの導入が望ましい。
この本は 2004年9月の刊行。今でもマクドナルドのマニュアルはそうなっているのだろうか。だとしたら、どのように道徳心を保っているのか。
マクドナルドに勤務した経験のあるひとに訊いてみたいものだ。
以上の感想を書いたあと、読み進むとすぐに以下の一文に出会ってほっとした。
p.95本社にとって帰り経理部に相談しました。その答は「あ、わかりました。問題ありません (テナント入居規程のとおりにレジスターの売上げで計算します : 引用子註)」という拍子抜けのするものでした。
1月12日金曜日に、この文を書いてる。
やー、今回だけは生きる気力の欠如だけで飢え死にしてもおかしくはなかった。食費くらいはあったし、未来への展望もあり。(試せてもいないがたぶん)外に出て食べる体力はきっとあったのだが、月曜から三日間ひたすら起きてはまた寝ていた。
内面の理由はこれから検討。多少の見当はついてる。
だが、連絡が取れなくて迷惑をかけた相手も複数あり、もし目に止まると言い訳と見なされるだろうから。結論が出ても公開すべきではないだろう。
心配をかけた方のひとりが、しつこくノックをして下さり昨日外に出られた。お粥を食べてから挨拶回りをして、また食事を二回摂った。甘味も食べた。
今日まで五日分のメールが端末に落ちてくるまでの合間に備忘として記載して公開しておく