「博奕は自分の身の丈でやれ」
と年長者は言う
「身の丈で満足できるなら博奕はしねぇよ」
と若者は口を尖らかす
「君の身の丈は、自分が思うより大きい。
受け継ぐものがあるのだから。
財を子孫に遺すのに博奕は必要ないよ」
と年長者の親世代が言う
「博奕をしたつもりはなかったのに」
と未生以前のものは嘆く
「私が先祖から受け継いだものに、
既にして博奕が含まれていて
隠れていた危険が
ときに牙を剥くなんて、
誰も教えてくれなかった」
と
-ライ麦畑で押し出して-
「博奕は自分の身の丈でやれ」
と年長者は言う
「身の丈で満足できるなら博奕はしねぇよ」
と若者は口を尖らかす
「君の身の丈は、自分が思うより大きい。
受け継ぐものがあるのだから。
財を子孫に遺すのに博奕は必要ないよ」
と年長者の親世代が言う
「博奕をしたつもりはなかったのに」
と未生以前のものは嘆く
「私が先祖から受け継いだものに、
既にして博奕が含まれていて
隠れていた危険が
ときに牙を剥くなんて、
誰も教えてくれなかった」
と
もちろん、河合・谷川対談「魂にメスはいらない」」をもじった日記題名です 。
三日ほどネットにアクセスできず、時間の制約もあって、ふつうの新聞の記事や、TV のニュースが頼りでした。
中で違和感をおぼえたのは、昨4日 19 時の NHK ニュースと、今朝の朝日新聞にも (きっとほかでも多数に) 取り上げられている、子供の心の疵の話。
『子供が夜おびえるようになった』などの声が家族から寄せられています
それぞれの家族に訊けば、当然にそう答えるでしょう。 だが、それって自然なことではないの ?
震災の心の疵を癒す
? 人の生きるうえで「癒すよりほかに手段のない出来事」と「乗り越えるべき、乗り越えられる出来事」があって当然。そして「家族 (保護者) の許にいま居ることができている子供たち」にとっては後者に過ぎません。……と、私は思う
阪神淡路大震災のとき、 PTSD が深刻な問題になったのは、むしろ独り立ちしたあとの成人(や、老人も)。
受容れるに大きな出来事を、夜の夢にフラッシュバックすることで消化していくのは、誰でもごく当然。まだ、それを疵痕というには早すぎる。
そして NHK のニュースも朝日の記事も「親はこれこれしてあげましょう (してあげるべきです) 、あれはしてはいけません」
魂にマニュアルはないんだよ
子供が生まれてからずっと一緒にいた親の観察と気持ちのまま。それが一番。
自分の気持ちをマニュアルに縛ったほうが失敗するというのは、戦後すぐのスポック博士の育児ブームなどで山ほど前例があるのに。